かっこよい人

俳優・相島一之に聞く【後編】
60歳からの「人生のモノサシ」

前編のインタビューでは、三谷幸喜さんと東京サンシャインボーイズとの出会い、そして、劇団休止後の俳優としての成長について話を聞いた相島一之さん。
後編では、46歳のとき、GIST(ジスト)という悪性腫瘍を患った体験をはじめ、バンド活動やミュージカルにかける思いなどについて、話を聞いてみよう。

前編記事はこちら→俳優・相島一之に聞く【前編】人生を決定づけた三谷幸喜との出会い

相島一之(あいじま・かずゆき)
1961年産まれ。埼玉県熊谷市出身。1987年、立教大学法学部6年生のときに三谷幸喜の東京サンシャインボーイズに参加し、1994年の『罠』で劇団が休止するまでの全作品に出演。その後はプロの俳優としてテレビ、映画、舞台など活躍。2006年、45歳で結婚した翌年にジスト(消化管間質腫瘍)を患い、大手術の末に復活。以後、本格的ミュージカルに出演したり、相島一之 & The Blues Jumpers にて音楽活動をするなど、60歳になった今も精力的な挑戦を続けている。2児の父。
目次

いくつもの幸運があって、
僕は大病から生還した

相島さんは、45歳で結婚した年の翌年、ご病気をされていますね。どんな風に発覚したのですか?

相島
まず最初に現れたのが排便困難と呼ばれるもので、スムーズに排便ができない症状になったんです。そのうち、潜血もまざるようになって、「痔になっちゃったのかな」と思いました。

肛門科のお医者さんとはいえ、人にお尻を見せるのって、恥ずかしいじゃないですか。だから、できるだけうまく処置してくれるお医者さんに診てもらおうと思って、ネットの口コミで評判の高い横浜のクリニックを訪ねることにしました。

僕にとって運がよかったのは、出会ったお医者さんがみな名医だったことです。そのクリニックで僕を診てくださった先生は、ちょっと触診をしただけで、「相島さん、残念だけどこれ、痔ではないよ。ちょっと厄介な病気かもしれないね」と診断してくれました。

そして数十分後、「品川のNTT東日本関東病院に検査の予約をとったから、すぐに行きなさい」と言われました。「クルマで来たから今、運転して行っても診療時間に間に合いませんよ」と言うと、「クルマはここに置いておいていいから、新幹線で行きなさい」って。

ここに至って僕は初めて、事の重大さに気づくんです。

ショックだったでしょうね?

相島
後でカミさんには、「あなた、あのとき泣いてたわよ」と言われました。僕には泣いた自覚はないんですけど、多分泣いてたんでしょうね。
自分の病気がどんなものなのかわからないまま、検査の結果を待つ間は気が気でなかったですよ。

で、検査ではどういう結果が出たのですか?

相島
直腸にこぶし大の悪性腫瘍ができていることがわかりました。

お医者さんって、悪いことから先に説明を始めるんです。僕がその悪性腫瘍について最初に受けた説明は、「最悪なケースでは、骨盤内臓全摘手術になります。腫瘍ができた場所が直腸ですから、肛門も摘出して、人口肛門をつけることになります」というものでした。

目の前が真っ暗になりましたけど、次の説明で少しは希望があることを知らされました。

「この腫瘍は、消化管間質腫瘍とも呼ばれるGIST(ジスト)である可能性があります。もしそうなら、腫瘍を小さくする特効薬がありますから、それほど体にダメージを与えずに摘出することもできます」とお医者さんは言いました。

ジストは、がんとは違うんですか?

相島
胃がんや大腸がんなどの消化器がんは、消化管の内側をおおう粘膜から発生しますが、ジストは粘膜の下にある筋肉層の細胞から発生する「肉腫」の一種なんです。ジストの発症率は、年間に10万人に対して1人から2人くらいのマイナーな腫瘍で、消化管の専門家でも診断されないケースが多いのだそうです。

ただ、ここでも僕は幸運に恵まれました。がん研有明病院で再検査をしたところ、品川の病院の先生が指摘した通り、僕の腫瘍はジストだったんです。しかも、腫瘍が他の細胞にしみ込む「浸潤」の程度が浅かったことと、周囲の臓器などへの「転移」もしていないことがわかったんです。

そこで、ジストの特効薬であるグリベックという薬を3カ月服用して、こぶし大だった腫瘍をピンポン玉くらいに小さくして、腹腔鏡手術で摘出してもらいました。このとき、手術を担当してくださった先生が、日本で5本の指に入ると言われる名医だったことも、僕にとっては大きな幸運でした。

手術後、再発の心配はありませんでしたか?

相島
もちろん、再発リスクはありましたから、しばらくの間はグリベックを服用し続けていました。グリベックは、2003年に日本で承認された薬なんですが、2014年に後発品の流通が始まって、他の承認済み抗がん剤と同じように気軽に服用できるようになった薬です。人によって効き方は異なるそうなんですが、幸いなことに僕には効く薬だったので、手術後、7年間ぐらいは服用していました。

結局のところ、僕がジストから生還できたのは、いくつもの幸運が重なった結果だったことがわかります。

最初に診てくださった横浜の肛門科クリニックの先生が、悪性腫瘍の可能性を見つけて品川のNTT東日本関東病院での検査を薦めてくれたこと。その品川の病院の先生が非常に稀なジストの可能性を指摘して、がん研有明病院を紹介してくださったこと。そして、名医の手で小さくなった腫瘍を取り除いてくれたこと。僕の体質とグリベックの効用に相性がよかったこと、などなど……。

これらの幸運がひとつでも欠けていれば、僕は今、この世にいなくなっていたか、かなり深刻な境遇に甘んじねばならなかったでしょう。

病気をきっかけにした決断
「好きなことを好きなだけやろう」

病気体験を経て、相島さんの考え方や人生観などに変化はありましたか?

相島
大いにありましたね。とにかく、人間というのはある日突然、死んでしまうことがある。それを自分でコントロールすることはできないという事実を思い知った体験でした。

そこで行き着いた結論は、どうせ死ぬなら好きなことをやって後悔なしに死のう、ということでした。

そんな矢先、2000年に出演したドラマで音楽監督を務めたミュージシャンのyassが「バンドやらない?」と声をかけてくれたんです。渡りに船とはこのことです。少しの迷いなく「やろうよ」って答えてました。
そして、トントン拍子に話が進んでできたのが「相島一之&The Blues Jumpers」というバンドです。

10代のころ、人生をこじらせて死にたいと考えていた僕を救ったのが音楽だったという話は前編のインタビューでしましたね。好きになった歴史からすれば、音楽のほうが演劇より長いんです。

すべての楽曲で、相島さんは作詞を担当しているそうですね。バンドのオフィシャルホームページで『世田谷のたぬき』と『かたつむりのジャブ』を聴かせいただきましたが、素晴らしい曲だと思いました。

相島
ありがとうございます。バンド結成が2010年で、現在、オリジナル曲は30数曲になりました。

バンドを始めて本当によかったなと思ったのは、尊敬するミュージシャンと共演できたこと。日本のブルース界の巨人・吾妻光良さんと聖地・高円寺のJIROKICHIのステージに立ったときは夢のようだったし、RCサクセションのホーンセクションを担当した梅津和時さんのライブにゲストで呼ばれて一緒に演奏したときは、本当にうれしかった。

もし、青春時代の僕に会えるなら、こう言ってやりたいです。「今は生きてるだけで辛いかもしれないけど大丈夫。その先には大好きな音楽に包まれる日々がやってくるからね」と。

相島一之 & The Blues Jumpers オフィシャルホームページ

それまで経験したことのない
本格ミュージカルへの挑戦。

ところで、相島さんは2017年に日生劇場で上演された本格ミュージカル『フランケンシュタイン』に出演されていますが、それまでストレートプレイ(セリフ劇)の舞台を踏んできた相島さんにとって、大きな挑戦だったのではないですか?

相島
その通りです。だから、オファーが来たときはマネージャーに「ホントに僕でいいの?」と何度も聞きましたし、顔合わせのときもプロデューサーに直接聞きました。

それでも挑戦してみる気になったのは、病気をきっかけに「新しいことに挑戦するチャンスが来たら、迷わずやってみよう」と決意していたから。

ミュージカルとストレートプレイの違いは何かというと、音楽をどう扱っているかということに尽きると思います。

生のオーケストラの迫力ある伴奏とともに、歌のうまいミュージカル俳優の人たちが歌った瞬間、舞台の上に別世界が立ち上がる、そんなイメージ。

一方、ストレートプレイの場合、セリフを通じて役者の関係性を作っていくのがメインで、音楽はあくまでお芝居の効果を高める道具でしかありません。

ですから最初、『フランケンシュタイン』の台本を読んだとき、何がおもしろいのか理解することができずに戸惑いました。

ところが、初めての本読みでピアノと歌が入ったとき、物語が急に立ち上がってきたのです。これがミュージカルか! と衝撃を受けました。

2018年には同じく本格ミュージカルの『マイ・フェア・レディ』(帝国劇場)に出演し、2021年の再演でも現在、出演中です。この作品への挑戦には、どんな手応えを感じていますか?

相島
『マイ・フェア・レディ』の日本初演は1963年なんですが、これが日本でいちばん最初に上演されたミュージカルだったんです。そういう意味で、古典中の古典とも言うべき名作です。

初演では、主役のイライザを江利チエミさん、ヒギンズ教授を高島忠夫さんが演じていました。僕が演じるピッカリング大佐は、主役の二人をずっと見守り支えていくキャラクターなんですが、初演から27年間、往年の大コメディアンの益田喜頓(キートン)さんが演じていました。

50代の後半になってその役を自分が演じることの高揚感は、たまらないものがあります。おそらく、こういう貫禄と包容力のある人物は、40代では演じられなかったと思いますし、役者としての幅をどう表現したらいいのか、模索していくのが楽しいです。

ちなみに、ストレートプレイの役者は稽古が終われば酒を飲み、本番が終われば打ち上げと称して酒を飲む人間が多いんですが、ミュージカル俳優さんたちはその点、すごくストイックで、稽古や本番の後はまっすぐ家に帰る人が多いです。それは、ミュージカルが1回の公演で喉とか体にかかる負荷がものすごく大きいということを物語っています。

今回の公演でも、そのことを再確認して、刺激を受けています。

人生は、自分ひとりだけのものではない

2021年11月で相島さんは60歳になりましたね。最後に読者のために「60代を元気に生きるコツ」をお教えいただけませんか?

相島
まだ60歳になったばかりの新入りなので、偉そうなことは言えません。

でも、46歳のときの大病がきっかけとはいえ、好きなことや新しいことへの挑戦をし続けてきて、つねに人生を前向きに考える癖をつけてきたことは大きなプラスだったと思います。

もうひとつ、これからの人生の原動力になっているのが家族の存在です。

結婚したのが45歳と、世間の人たちより遅かったことはすでにお話ししましたが、最初の子どもが生まれたのが49歳のとき。2番目の子が生まれたのが52歳のとき。二人とも、まだ小さいんです。

人生にモノサシがあるとして、45歳で結婚するまでの僕は、自分ひとりで生きていくモノサシを基準にして生きてきました。結婚したとき、今度は「自分だけの人生じゃないんだぞ」という足かせのあるモノサシに変わりましたが、当時はそれほどのプレッシャーは感じませんでした。

でも、子どもが生まれたとき、さらに新しいモノサシを渡されたときは、肩にずっしりと重みを感じるほどのプレッシャーがありました。

ウチの子たちが20歳で成人するとき、僕は70歳を超えています。その新しい人生のモノサシは、「70代に突入するまでバリバリ働け」ということも指し示しているんでしょうね。

幸いなことに、僕が自分の職業として選んだ役者に定年はありません。年を重ねれば重ねるほど、演じられる役の幅もどんどん広くなっていきます。

2020年9月には、黒柳徹子さんと『ハロルドとモード』という朗読劇に出演させていただいたんですが、87歳(当時)の黒柳さんが若者に恋する老婆役を貪欲にアグレッシブに作り出そうとしている姿に刺激を受けました。何歳になっても創造力というのは衰えることはないんだなと確信したことで、大いに勇気づけられました。

大学生になって演劇と出会ってから39年、東京サンシャインボーイズに参加してから数えれば34年、それまでずっと役者を続けてきたわけですけど、好きなことや新しいことへの挑戦はずっと続けていきたいと思いますね。

相島一之・現在出演中
名作ミュージカル「マイ・フェア・レディ」

取材・文=内藤孝宏(ボブ内藤)
撮影=松谷佑増(TFK)

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