かっこよい人

俳優・相島一之に聞く【前編】
人生を決定づけた三谷幸喜との出会い

今回、登場していただくのは、俳優の相島一之さん。
1987年、三谷幸喜さん率いる劇団「東京サンシャインボーイズ」に参加し、以後、ほぼすべての公演に出演。劇団の休止後はプロの俳優として舞台、ドラマ、映画に出演してきたベテラン俳優である。
2021年11月で60歳になった今、その心境について大いに語っていただこう。

記事は前編と後編、2回に分けて配信していきます。

相島一之(あいじま・かずゆき)
1961年産まれ。埼玉県熊谷市出身。1987年、立教大学法学部6年生のときに三谷幸喜の東京サンシャインボーイズに参加し、1994年の『罠』で劇団が休止するまでの全作品に出演。その後はプロの俳優としてテレビ、映画、舞台など活躍。2006年、45歳で結婚した翌年にジスト(消化管間質腫瘍)を患い、大手術の末に復活。以後、本格的ミュージカルに出演したり、相島一之 & The Blues Jumpers にて音楽活動をするなど、60歳になった今も精力的な挑戦を続けている。2児の父。
目次

人生をこじらせていた10代。
死なずにすんだのは剣道と音楽のおかげ

相島さんは、いつごろから演劇に興味を持つようになったんですか?

相島
演劇に出逢ったのは、大学生になってからです。

10代のころの僕は、「人はなぜ生きるのか、生きる意味は何なのか」そんな形而上学的問題をずっと考えてしまった頭でっかちな若者でした。

人生をこじらせていたわけですね?

相島
まさにそうですね。そもそも、なぜ人は生きているかなんて、いくら考えても答えが出る問いではありません。行き着く先は「生きることに意味はない」なんて身も蓋もない結論でした。

それでも、僕がかろうじて死なずにすんだのは、剣道と音楽のおかげだと思っています。剣道の部活の仲間。そして1日に何時間も繰り返し聴いていたロック。今思えばそれが生きる支えでした。

2浪して大学に入るんですが、そこでもまだ悩んでいました。

僕が入学した立教大学というところは、とても華やかな学校でね。ツタのからまるチャペルで有名なキャンパスは、キラキラした男の子と女の子であふれていました。女の子はまるでファッション誌から飛び出してきたようなハマトラ女子。それはバブルに向かう好景気の予感だったんでしょうね。

当然ながら、そんな雰囲気に馴染むことができず、あっという間に五月病。ろくに授業にも行かず、喫茶店で友だちとダベる自堕落な生活に突入しました。

こじらせっぷりが板についてる感じですね……。

相島
夏を過ぎたころかな。体育の授業だけは出ておこうと思ったんです。単位を取っておかないと、あとあとまで重荷になりそうでしたから。

久しぶりに授業に顔を出すと、出席をとるときに教師にこう言われました。「相島、お前あと1回休んだら単位やんねぇぞ」ああ、もう休めないなあと思っていると「大城、お前もだ」と。「え?俺の他にもう一人?」それが大城くんとの出逢いです。

授業の途中グラウンドを走っているときです。出来の悪い者同士お互いに気になるから、どちらともなく近寄っていって話し始めました。「君はなんでそんなに体育を休んだの?」と大城くんに聞いたところ「演劇をやってんだ」という答えが返ってきたんです。

僕の人生の中で、「演劇」の2文字が初めてクローズアップされた瞬間でした。

大学に8年通って演劇生活にどっぷり

彼の誘いを受けて、演劇を始めるわけですね?

相島
そうです。OGに野際陽子さんがいる劇団テアトル・ジュンヌという歴史ある演劇サークルです。

今はもう無くなってしまったけれど、キャンパス内に「5分で全焼」と言われた木造バラック建てのスタジオBという、まさに掘っ立て小屋があって。そこで観たお芝居がとてもおもしろかったんです。その後、大城くんに「部員が足りないんだ。仲間になってくれないか」と頼まれて誘いに乗ることに。

そのころの僕は、漠然と物書きになりたいと思ってはいましたが、回り道が好きなんですね。ドロップアウト次いでに演劇に寄り道してもいいかなと思ったわけです。

それからは、どっぷりと演劇の世界に浸る日々になっていくわけですね?

相島
そうです。そして気がつくと、大学に8年間も通い続けていました。卒業できないのはしんどかった。

どれくらいしんどかったかというと、「ああ、今年も単位がとれなかった」と絶望する悪夢を卒業後もずっと見続けたくらい。

余談ですけど、その悪夢を見なくなったのは、45歳で遅咲きの結婚をした年のことでした。いつもは単位がとれないかもしれないとうなされて目覚めるのですが、その年だけは続きがあって、「まぁ、いいか、落ちても」と夢の中で開きなおることができたんです。以後、その夢を1度も見なくなりました。

三谷幸喜は、出会ったころから
優れた劇作家だった

劇団テアトル・ジュンヌを経て自らの劇団を旗揚げしたり、立教OBの劇団でも活動していた相島さんは、1987年に三谷幸喜さんの東京サンシャインボーイズに参加します。どんなきっかけがあったんですか?

相島
確か何度目かの留年を経て学内に同じ年代の同級生がいなくなっていたころです。オシャレなキャンパスの中、ジャージ姿で発声練習や柔軟体操をしている僕は浮きまくっていた存在だったと思いますが、中には、そんな僕のことをおもしろがって声をかけてくれた女子学生もいたんです。

その彼女の友だちに、立教大生なのに日芸(日本大学藝術学部)に出入りして演劇をしている子がいるよと一人の女性を紹介してもらいました。その翌週、彼女が三谷を連れてきたんです。きっと「立教に面白い演劇青年がいる」と聞いたんでしょうね。いきなり「僕と一緒に芝居をやりませんか」と誘ってきたんです。

そのときの三谷さんの印象は?

相島
とても面白い男! ただ、当時の三谷はまったくの無名。日芸で注目されていたのは、劇団ショーマ(ドラマ『相棒』でお馴染みの川原和久くんを輩出した劇団です)、それから少し後に旗揚げした花組芝居も人気を博していましたが、この二つに比べると東京サンシャインボーイズは「知る人ぞ知る」くらいの存在でした。

にもかかわらず、三谷の誘いを受ける気になったのは、彼の書く台本がとんでもなくおもしろいものだったから。そして、当て書きといって、役者ひとり一人の性格や得意分野を生かしてキャラクターを作り、全員に見せ場を与える作劇法にも魅力を感じました。

当時の演劇界では小劇場ブームが起こっていて、野田秀樹さんの夢の遊眠社や鴻上尚史さんの第三舞台といった劇団がトップにいて、その小劇場人気を牽引していました。

そうした劇団がオーソドックスな物語をぶち壊して、実験的な芝居を展開していたのに対して、東京サンシャインボーイズの芝居はその真逆な作風でした。どんな人が観ても楽しめるウェルメイドなエンターテインメント作品は、当時の演劇界では小劇場ブームの端っこに置かれていたんです。

実際、このころのうちの劇団は「1公演で動員観客数1000人」を目標にして公演を行っていましたが、いつまでたっても先が見えない状態でしたからね。

東京サンシャインボーイズが
「チケットのとれない劇団」になるまで

相島さんは、1987年の『旦那さまから一言』に出演して、以後、ほぼすべての東京サンシャインボーイズ公演に出演していますが、小劇場ブームの端っこにいた劇団がメインストリームに躍り出ていく様子をどのように見ていましたか?

相島
僕個人として印象に残っているのは、1990年初演の『12人の優しい日本人』です。数えてみると、僕が東京サンシャインボーイズに参加して12本目の作品なんですね。

三谷の台本は、初回の本読みで役者同士がクスクス笑い出してしまうくらいおもしろいんですが、この芝居ではセリフの面白さだけではなくて、より演劇的な深みが加わった印象がありました。レベルが一段上がった感じ。稽古にもすごく力を入れて、みんなが全力で頑張った覚えがあります。

もうひとつ、劇団にとって転機になった作品と言えば、1991年の『ショウ・マスト・ゴー・オン~幕をおろすな』でしょう。

小劇団の登竜門と言われる本多劇場での公演でしたが、満場のお客さんの拍手が鳴りやまなかった。このあたりから劇団は、「チケットのとれない劇団」と呼ばれるようになりました。

1991年というと、劇団の旗揚げから8年、相島さんの加入から4年もたっています。けっこう時間がかかっているんですね?

相島
僕ら役者は、芝居を観たお客さんから「お話はおもしろい」とよく言われていました。そのたびに悔しい思いをしてきたんです。

「役者の演技もよかった」と言っていただけるまでに成長するのに、それだけの年数がかかったということなんでしょうね。

劇団にいる間は、ずっとバイト暮らしでした

東京サンシャインボーイズが「チケットのとれない劇団」になって、生活のためのアルバイトは辞められたんですか?

相島
とんでもない。ずっとバイト生活でしたよ。

先ほど述べた『12人の優しい日本人』ですが、中原俊監督によって映画化されることになって、劇団からは僕と梶原善が出演することになったんです。

映画が完成しその出来もよかったものですから、あるとき、プロデューサーの笹岡幸三郎さんが僕らに、こんなことを言いました。「相ちゃん、善ちゃん、来年から忙しくなるよ」と。

でも、実際にテレビや映画で引っ張りだこになったのは共演者の豊川悦司くんで(笑)、僕らのほうはあいかわらずのバイト暮らしでした。

そんな境遇の中、腐らずに演劇を続けてこれたのは、やはり演劇が好きだったからでしょうか?

相島
そうでしょうね。そうだと思います。

2020年夏、僕は久しぶりに三谷作品である『大地(Social Distancing Version)』に出演させてもらいました。僕の楽屋はかつて夢の遊眠社にいた浅野和之さんと劇団四季出身の栗原英雄さんと同じだったんです。そのとき、「いつから演劇に興味を持ったか?」という話題になりました。

僕が演劇に興味を持ったのが大学生からだという話はすでにしましたよね。ところが、浅野さんも栗原さんも中学生のころに演劇に目覚めていて、すでに高校生のころから芝居作りを始めていることがわかったんです。

彼らから比べると、僕の演劇との出会いはずいぶん遅かったんだなぁという感想を後日三谷に話すと、「ウチの劇団の役者のほとんどは相島と同じだよ」と言いました。

確かに根っからの演劇青年だったのは児童劇団にいた近藤芳正くらいで、他のメンバーは社会人経験のある伊藤俊人や、大衆演劇でドサまわりをしていた阿南健治らのように変わった経歴を持つ人間ばかりです。僕らは三谷と合って、彼の才能に引っ張られ、演劇の世界を走ってきたんでしょうね。

そう考えてみても、三谷との出会いは、僕を演劇の道に進ませる最大の原因だったことがわかります。もし、彼との出会いがなかったら、演劇は途中であきらめて、物書きになっていたのかなぁ。それくらい、僕にとっては大きな出来事でした。

東京サンシャインボーイズが復活する日

1994年、劇団は『東京サンシャインボーイズの罠』を最後に30年間の休止期間に入りますが、どのような経緯でそうなったのでしょう?

相島
劇団を維持していくためにはどうしたらいいのかと、当時考えたことがありました。

ひとつのパターンとして考えられるのは、養成所を作って若手の役者を育てながら組織を大きくしていく方法です。それから、地方公演を積極的に行って、年間数百ステージをこなして観客動員数を10万人とか20万人の規模にするという、もうひとつのパターンもあります。

でも、東京サンシャインボーイズがそういう劇団になっている姿は、どちらも想像できませんでした。

それはなぜかというと、東京サンシャインボーイズが劇作家である三谷幸喜の作品そのものであり、組織や公演の規模を拡大して劇団を続けていくスタイルを望んでいなかったからなんじゃないでしょうか。

活動を休止するかどうか、みんなで話し合いましたが、結局はみんな解散を受け入れました。みんな個人で勝負するという発展的解散です。しかし、フタを開けたら「解散」ではなく、「休団」だった。なんか三谷らしくて笑っちゃいました。

実際、東京サンシャインボーイズは15年後の2009年、新宿のTHEATER/TOPSが閉館することを受けて新作『returns』を上演しましたね?

相島
そう、そして再び15年間の休止期間に入ったわけですが、その15年間も今や、明けようとしています。2024年まで、あと3年。さて、どうなるんでしょう。

僕自身は、劇団が再開できたらいいなあと強く希望しております。なのでみなさん、是非とも応援してください。

俳優を職業にするということとは?

さて、劇団の休止後、俳優として一人立ちした相島さんですが、そこからはどんな日々でしたか?

相島
劇団の中で芝居をしていたときと、ドラマの世界はまったく別ものでしたね。

ある日、映像の仕事でカメラの前で演じていたとき、僕が大事なセリフをしゃべっているのにカメラが僕を写していないのに気づいたんです。

「どうしてなんだ!」と、最初に世話になった事務所の社長にブーブー文句を言ってたら、「お前の顔を撮りたくないんだろ」と言われました。確かに、おっさんの顔を写すより、きれいな女優さんの顔を写したほうが視聴者は喜びますよね。

それから、こんなこともありました。
ドラマのシナリオを読むと、途中で前半のストーリーを説明するような長いセリフが書いてあるんです。「こんな説明ゼリフ、不自然じゃないですか」と監督に聞くと、「その時間帯に別の番組を見ていた視聴者がチャンネルを切り換えて見にくるからです。だからお願いします」と言われてしまいました。また、「主婦が家事をしながらでもストーリーがわかるように説明してるんだよ」と言われたりもしました。こんなことは、お芝居してるだけじゃ分かりませんよね。
ドラマの撮影に慣れるのに5~6年ほどかかったと思います。

でも、おもしろいもので、「僕なんて撮らなくていいです。相手役の人を撮ってあげてください」という気持ちで撮影現場に臨んでいると、だんだんカメラが僕を写してくれるようになったんです。

きっと、俳優として一人立ちしたばかりのころは、「俺も頑張ればブラット・ピットになれる」みたいな気負いのようなものがあったのでしょう。

でも、自分がどれだけ頑張ってもブラピのようなスターになれないことくらい、40歳を過ぎるとどんなバカでもだんだんとわかってきます。結果的に「俺が俺が」という力みのようなものが消えて、自然体でカメラの前に立つことができたんだと思います。不思議なものですね。

興味深いお話、ありがとうございます。後編では、46歳のときに大病をされたお話、バンド活動や本格ミュージカルに挑戦するお話などをうかがいたいと思います。

後編記事はこちら→ 相島一之インタビュー【後編】 60歳からの「人生のモノサシ」


相島一之・現在出演中
名作ミュージカル「マイ・フェア・レディ」

取材・文=内藤孝宏(ボブ内藤)
撮影=松谷佑増(TFK)

※掲載の内容は、記事公開時点のものです。情報に誤りがあればご報告ください。
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