かっこよい人

武田鉄矢インタビュー(前編)私が出会った「本の中の師匠」

2020年11月に出版された武田鉄矢さんの『老いと学びの極意 団塊世代の人生ノート』(文春新書)が話題を呼んでいる。
50歳のとき、「わからないこと」を大学ノートに書き出し、その答を探し求める一人勉強を始めたという武田さん。その旺盛な知識欲の源泉は何なのか? 「老い」とどのように向き合っていけばよいのか? そのヒントを探るべく、話を聞いてみた。
その迫真のインタビューは前編と後編、2度に分けてお届けします。

武田鉄矢(たけだ・てつや)
1949年 4月11日生まれ。福岡県福岡市出身。福岡教育大学卒業(2008年に名誉学士授与)。1972年に海援隊のボーカルとしてデビューし、『母に捧げるバラード』、『贈る言葉』などのヒット曲を多数生む。俳優としても活躍し、映画『幸福の黄色いハンカチ』などに出演。ドラマ『3年B組金八先生』は30年を超える人気シリーズとなった。
目次

自分より賢い人に語りかけるようにして書け

『老いと学びの極意』、おもしろく読ませていただきました。講談の速記本を思わせる「語り」の文体が印象的でした。

武田
読みにくい、というご指摘を受けたこともあります。珍しく私の原稿に目を通した女房は、「わざとむずかしく書いている」なんて言ってました。

実は、本を書くにあたって念頭にあったのは、深夜ラジオの黎明期、ある番組のディレクターから言われたこんな言葉です。
「自分より頭のいい人が聞いていると思ってしゃべれ。そうすれば、失言が少なくなる」

パーソナリティーの言葉尻をとらえて攻撃したり、批判したりする風潮は、ネットの時代から始まったわけではなく、ずっと昔からありまして、特にリスナーを見下して偉そうに話すしゃべり手がその餌食になっていました。

そうならないように、自分より賢い人に語りかけるようにして話せ──というのが、そのディレクターのアドバイスでした。

また、深夜ラジオというのは受験生とか、タクシーやトラックの運転手がリスナーの中心です。そういう人たちにとって、ただわかりやすいだけの薄っぺらな話は退屈で、眠くなっちゃうんですね。だから、少し理解できない部分があったり、まわりくどい言い方があったほうが丁度いいんです。

この本を書くにあたって、そのときの心構えを思い出しながら筆を執りました。

「嘘つき」は「物知り」のはじまり

70歳を過ぎても衰えをしらない鉄矢さんの知識欲にはいつも驚かされます。でも、この本を読むと、その知識欲は幼少期から始まっていたことがわかります。実家のタバコ屋さんの売上をくすねて足繁く映画館に通ったり、図書館で分厚い人名辞典を暗記したり……。

武田
知識欲、というほどカッコのいいものかどうかはわかりません。ホラ、子どもって、世の中にないものを発明する物知り博士とか、前人未踏の土地を旅する冒険家みたいな大人に憧れるでしょ。

たけど、そういう頭のいい大人に恋い焦がれたとしても、すぐに願いがかなうわけではありません。だから、子どものころの私は嘘ばっかりついて、いつも叱られている子どもでした。「知ったかぶりの鉄ちゃん」という異名があったくらいで。

物知り博士のフリをしたところで、子どもの浅知恵ですから、すぐにケツが割れてしまうんです。では、𠮟られないようにするにはどうすればいいかというと、ちょっとずつでもいいから、知識を増やしていくしかないんです。

つまり、「嘘つき」というのは「物知り」の正反対の状態なのではなくて、「物知り」になるための出発点なんです。嘘ばっかついてる子どもが成長して「物知り」になるんですね。人間の成長って、そんなもんなんじゃないでしょうか。

自分の頭で徹底的に考える「誤読」のススメ

『老いと学びの極意』には、フランス文学者で武道家の内田樹さんの言葉が多く引用されています。鉄矢さんにとって、内田樹という人はどんな人なのでしょう?

武田
司馬遼太郎さんと同様、私の人生に大きな影響を与えた「本の中の師匠」です。

とにかく、この人が本に書いている言葉が、心に強く響くんです。しかも、すぐに理解できる言葉ではなく、読み方によって、いくつも解釈できるような複雑な言葉なんですね。

例えば、ある本の中で内田さんは「快感」というものを定義しています。あえて正確な引用ではなく、私が理解したままの言葉で表現すると、こうなります。
「快感とは、相手が快感を得ていることを知った時点で発生する。そして、相手の快感より、自分の快感のほうが少ないときに最大化する」

む、むずかしい定義ですね。

武田
でしょ? でも、すぐに理解できないからこそ、それについて考えさせられてしまうんです。

何年もそのことを考えた末のある日、子どものころ、親父とラーメンを食べたときの記憶が浮かんできて、内田さんの定義とピッタリ結びつきました。

その記憶は、小津安二郎の白黒映画のワンシーンのように浮かんできたんであります。

「おいしいねぇ、おいしいねぇ。お父さん、おいしいねぇ」とラーメンをすすりながら話す私。すると親父は「うまいだろ、うまいだろ、ラーメンうまいだろ」と言って、少し残った自分のラーメンを我が子に食べさせようとするんです。

子どもが「おいしい」と感じていることを知ったときの親父の気持ち、そして、残ったラーメンを子どもに与えたときの親父の気持ち、その「親としての情」こそ最大の「快感」なのではないかと。

う~ん、なるほど。深いですねぇ。

武田
もちろん、これが正解だとは言いませんよ。内田さんにこの話をすれば、「誤読です」と𠮟られるかもしれない。でも、こんな風に頭をフル回転してものを考えるのって、楽しいじゃないですか。

そこで、「誤読力」をさらに活用していくと、内田さんの言う「快感」が「男女の性愛」にも通じていると解釈することもできます。

下ネタですみません。つい、頭に浮かんでしまったので言いますと、男性は、女性がエクスタシーに達したとわかった時点で快感を得て、しかもその快感がどうやら女性より小さそうだとわかった時点で最大点に達するんです。

こじつけかもしれませんが、内田さんの武道論の中に「極意」という字のルビに「エクスタシー」とふってあるのを見つけたことがありまして、この解釈、あながち間違いではないのではないかと思っています。

こんな風に、誤読かもしれないけれど、あれこれと解釈する楽しみを与えてくれるのが、「本の中の師匠」である内田樹さんの文章なんです。だから、ご本人にお会いしてタネ明かしをしてもらうなんてもったいない。なるべくお会いしないようにして、繰り返し「誤読」を楽しんでいます。

人生に大きな影響を与えた司馬遼太郎との出会い

鉄矢さんにとってもうひとりの師匠、司馬遼太郎さんとの出会いについてもお話を聞いていいですか?

武田
18歳のときです。司馬さんの『竜馬がゆく』を初めて読んだのは。そのとき、「この作者は、俺のためにこの本を書いてくれたんじゃないか」と思ったんです。ある意味ではこれも、大いなる「誤読力」が働いた一例です。

実際、内田樹さんも「私たちは『自分宛て』であると確信されたメッセージについては、おのれの全力をあげて理解しようとする」と語っております。

『竜馬がゆく』の第一巻にあたる「立志篇」は、それまで何につけて劣等生だった竜馬が、剣術の分野でみるみる才能を発揮させて、19歳のとき、江戸に上京して千葉道場で修行する姿が描かれているんです。

そんな竜馬にまず、18歳の私は同年代だという親近感を持ったし、年の離れた長男と3人の姉がいるという兄妹構成が同じだったということにも偶然でないものを感じました。

読み進めるうちに竜馬は、お田鶴さまという身分違いの女性との恋に悩まされることになるんですが、当時、思春期まっただ中だった私も竜馬と一緒になって胸を焦がしました。

そうやって、江戸時代の劣等生が少しずつ、英雄に近づいていって幕末の世を動かしていく様子を夢中で追っていきました。もしかしたら、劣等生だったタバコ屋のせがれの自分も、竜馬のように英雄になれるかもしれない。『竜馬がゆく』は、そんなことを私に感じさせてくれた「希望の書」でした。

「まだ出会えていない師匠」はきっといる

司馬遼太郎さんと内田樹さん、この2人の師匠に共通するものがあるとすれば何でしょう?

武田
内田樹さんは物事を理解する際に、「肌理(きめ)」という表現を使います。物事の真実が肌触りというか、皮膚を通じて身体に入ってくるような形で理解されるというんですね。「快感」の定義なんかがその典型例だと思います。

司馬作品にも、しばしばそんな瞬間があります。司馬さんが晩年に書いた『菜の花の沖』という小説は、廻船商人の高田屋嘉兵衛を主人公にした全6巻の歴史小説なんですが、嘉兵衛が北前船に乗って蝦夷地を目指していくシーンでは、実際に潮風にあおられたような気がして、えづきながら読みました。これは、単に武田が船酔いをする体質だからなのではなくて、司馬さんの描写がパーフェクトだからこそ、起こることなんです。

そんな「肌理」のある文章に出会ったとき、それに心と身体が反応して、いろいろなことを考えさせるんですね。

鉄矢さんは、「まだ出会えていない師匠」がいると思いますか?

武田
いると思う。だって、「司馬さんと内田さん以外にもう師匠はいない」と思う人生なんて、つまらないじゃないですか。

冒頭で話した、「自分より頭のいい人が聞いているかもしれない」という、おびえの姿勢が、師匠と呼べる人物のところへ私を連れていってくれるんじゃないかと思っています。

これについては、内田さんも面白いことを言っています。師匠に出会うコツはたったひとつ。手を挙げて大きな声で「僕、わかりませ~ん」と叫ぶ勇気と声を持て、と。

そして、こんな例え話をするんです。
自動車教習所の教官と、F1レーサーの違いは何か? 教習所の先生は、自動車の運転技術という、大変有用なことを教えてくれる。だけど、生徒は卒業した途端にその先生のことを忘れてしまう。だけど、F1レーサーが運転技術を教えてくれたとしたら、たった10分の講習だったとしても、生徒はそのことを一生忘れず、教えられた技術をさらに磨いていくだろう。

つまり、ほとんど同じことを教えるのに、「これができれば大丈夫」ということを教える先生と、「学ぶことに終わりはない」と教える先生の間には、大きな違いがあるというわけです。

学びは一生ものである──。それが、「出会えていない師匠」はまだいると思う根拠です。これから、どんな師匠との出会いがあるのか、師匠はどんなことを教えてくれるのか、そのことを考えるとワクワクするんですよね。

ありがとうございます。後編では、「老い」との付き合い方について、じっくりお話をうかがうことにしましょう。

後編記事はこちら→ 武田鉄矢インタビュー(後編)最後まで持っておくべき「死ぬ元気」

武田鉄矢・著『老いと学びの極意 団塊世代の人生ノート』

老いと学びの極意 団塊世代の人生ノート書影
  • 著者:武田 鉄矢
  • 出版社:文藝春秋
  • 発売日:2020年11月20日
  • 定価:本体935円(税込)

「教える」イメージの強い武田鉄矢は、誰よりも「学ぶ」ことが好きだった。
老いが身近になったとき、学びは新たな境地に――
「老いの峠道、途上です。ますます「問い」は増えてゆきます。(中略)よすがになるやもと思った文章を抜き書き、控えて……何やら人生の難問を解く公式か、謎を掃い、鮮やかな極意でも見付からぬかと綴り続けた十冊ばかりの大学ノートです。皆様の何かのお役に立てばと思い、そのノートの中の出来事を文章にしてみました」

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取材・文=内藤孝宏(ボブ内藤)
撮影=八木虎造

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