かっこよい人

俳優・阿南健治に聞く【前編】
不遇時代を元気に生きる方法

三谷幸喜作品をはじめとする舞台、映画、テレビドラマで硬軟自在の個性を発揮している名バイプレーヤー、阿南健治さん。
2021年8月に上演する、阿南さん出演のエン*ゲキシリーズ最新作「-4D-imetor(フォーディメーター)」の話をはじめ、今に至る俳優人生を振り返ってもらった。
59歳にして精力的に活動する元気の源泉について、話を聞いてみよう。

記事は前編と後編、2回に分けて配信していきます。

阿南健治(あなん・けんじ)
1962年2月24日、大分県竹田市で生まれ、9歳まで兵庫県西宮市、18歳まで尼崎市で育つ。渡辺音楽学院で初舞台を踏み、渡米、大衆演劇、蜷川幸雄スタジオの劇団員といった経験を経て、1989年より劇団「東京サンシャインボーイズ」に所属。1994年に劇団が休団して以降は、テレビドラマや映画、舞台と幅広く活躍している。
目次

人生を決めた初ゼリフ
「スープは噛む?」

18歳のときに上京したそうですね。何を目指していたんですか?

阿南
映画監督になりたくて、専門学校に入学したんです。ただ、上京する前に大阪のほうで俳優養成所の東京校のオーディションを受けて合格もしていたから、俳優になりたいという気持ちもあったのかな? どうなんだろう。自分に何が向いているのかわからないから、いろいろと経験をしてみて、それを見つけたいというのがあったのかもしれませんね。

映画の専門学校に通いながらも、俳優養成所の方は、上京から半年後に辞めて、他を探して行き着いたのがスクールメイツの養成所の「渡辺音楽学院」というところ。スクールメイツっていうと、音楽番組とかで歌手のバックダンサーをしている人たちを想像する人が多いかもしれませんけど、演技を学べるコースもあって、いいなと思ったんです。何より、授業料が安いのがありがたかった。

で、そこでのアトリエ公演が私の人生初の舞台経験ということになるわけですけど、そのときもらった役は、女性の上司に仕えるサラリーマンの役。その上司から「スープは噛むものよ」と教えられて、「スープは噛む?」とオウム返しにしたとき、客席から笑いが起こったんです。そのときの、ちょっとした快感は今でも鮮明に覚えてます。

結果としてこれが、「自分自身で何かをやってみたい」という漠然とした思いが、「俳優になりたい」という目標に変わるきっかけになりました。年齢はそのとき、20歳になってました。

アメリカに渡って
憧れのカウボーイに!?

普通ならそこで、俳優になるための修行を開始するところですが、公式ホームページによると、阿南さんはそこでまさかの寄り道をします。何があったのですか?

阿南
あはははは。そうなんですよねぇ。口に出すと突拍子もなく聞こえるかもしれませんけど、「憧れのカウボーイ」になるためにアメリカに渡ったんです。

今思えば、世間のことを知らないまま演劇の世界にどっぷり漬かるのにためらいがあったからかもしれません。俳優になるための修行を始める前に、もっといろんな経験をして、人生の修行をしておくべきだと。今でもその選択は、間違ってなかったと思いますよ。当時の自分を褒めてやりたいくらいです。

アメリカでは、どんな日々が待っていましたか?

阿南
バイトで貯めたお金をたずさえて、渡米したのが20歳の春のこと。あてもなく出かけたわりには運よく国際農業研修機構という団体の研修生になれて、ウィスコンシン州の片田舎の牧場での仕事を紹介してもらいました。

農業未経験の自分がそんな仕事に就けるなんてありがたい、運がいいなと思っていたんですけど、ひとつだけガッカリしたことがありました。

それは、その牧場に馬がいなかったこと。肉用牛を飼っている牧場だと、足腰の強い牛を育てるために馬は大活躍なんですけど、そこは乳用牛しかいない牧場だったから馬が一頭もいなかったんです。

あるのはブレーキのついてない自転車だけで、牛を手と足で追いかけ集めながらの辛い労働を終えたあとは、遠く離れたところにあるドラッグストアまで、その自転車で出かけていくのが唯一の楽しみ。でも、仕事のほうは「こんな経験、2度とできないぞ」と自分に言い聞かせて懸命にやらせてもらいました。

そんなある日、仕事のあとにテレビを見ていると、ロンドンで初演されたミュージカル『キャッツ』がニューヨークのブロードウェイにやって来ての、メイキングの様子を収めた番組をやってたんです。

その途端、「そうだよな。オレは役者を目指してたんだよな」ということが思い出されて、いてもたってもいられなくなってきた。牧場に入って10カ月後のことで、本来ならあと2カ月ほど研修期間が残っていたんですけど、ボスに無理矢理的に辞めを言ってしまって、ニューヨーク行きを決意するんです。

ショービジネスの都
ニューヨークに単身乗りこむ

21歳の阿南青年の目に、ショービジネスの都、ニューヨークはどのように映りましたか?

阿南
街全体に、エネルギーがみなぎっているのを感じましたね。そこを歩いている1人ひとりがみんな、何の束縛も受けずに自由に暮らしているのがよくわかった。

しかも、その人たちはみんな、何かを作りたい、何かを表現したいという思いを抱えて世界のあちこちからやってきた人たち。私もその一員になった気がして、武者震いしました。

阿南さんはそこで、アルビン・エイリー・ダンススクールという教室に通って、ジャズやモダン、バレエの基礎を学んだそうですね?

阿南
授業料さえ払えば、誰でも入れる教室なんですけどね。その他にも、小さな劇団のオーディションを受けたりもしましたけど、「まずは英語を勉強してきなさい」と門前払いされる始末。ダンスだったら、英語がダメでも学べるものはあるだろうと考えたんです。

とはいえ、周りはプロのミュージカルダンサーを目指している人たちばかりだったから、ダンス未経験だった私なんか、歯が立ちません。

ただ、振り返ってみれば、そこでの経験は、とても貴重なものだったと思います。実力の差を思い知りながらも、「オレは日本人なんだ」という意識を強く持ったし、「日本人であるオレに何ができるんだ?」ということを真剣に考えるきっかけにもなりましたから。

ちなみに、当初の所持金は、牧場で働いたときの給料を貯めた500ドル。それを切り崩しながら、日本レストランに片っ端から電話をして仕事を探したんですけど、そろそろ500ドルが尽きかけたころ、やっと一軒のお店で雇ってもらえることになりました。

そういうところ、私は運に恵まれてるんですよね。稼いだお金のほとんどは、芝居通いにつぎ込んでました。

帰国して飛び込んだのは
ドサ回りの大衆演劇の世界

ウィスコンシン州の牧場で10カ月、そしてニューヨークで10カ月を過ごした後、阿南さんは帰国しますが、どんなきっかけがあったんですか?

阿南
スクールメイツの学校時代の先輩から手紙が届いたんです。「今、劇団の副座長をやっているんだけど、手伝ってくれないか」と書いてありました。中でも「阿南が手伝ってくれるなら、すぐにでも舞台に立てるぞ」という一文があって、大いに心を揺さぶられました。

何しろ、ニューヨークでは舞台に立つどころか、お客さんとして芝居を観るのが精いっぱいでしたから、「人前に出てパフォーマンスをしたい」という欲求がピークに達していたんです。

先輩の劇団がドサ回りの大衆演劇だと知ったのは、帰国してからのことだったかなぁ。カツラをかぶり、着物を着て、仁義を切ってのチャンバラ芝居。ニューヨークのダンススクールで、レオタード姿でジャズダンスを踊っていた生活から比べれば、180度の大変化です。でも、表現できる場を与えられたというだけで、気持ちは盛りあがってました。

日本に着いて、その1週間後には「嶋千太郎」という芸名をいただいて、山梨県の下部温泉のホテルの舞台に立ってましたね

大衆演劇のドサ回りの生活というのは、どんなものなんでしょう?

阿南
だいたい、1カ月単位で呼ばれた土地に劇団そのものが引っ越しをしていくような生活で、楽屋で寝泊まりして、食事も劇団員みんなで一緒にとっていましたから、衣食住には困らない。たいていは名の知れた温泉地でしたから、休みには温泉にも入れるし、観光もできる。
黙ってそこに所属していれば、一生芝居ができることを考えると、ある意味で非常に恵まれた環境だったと言えるでしょう。アメリカに渡る前、「演劇どっぷりの生活に飛び込んだら抜けられなくなるぞ」と思った通りの生活が、まさにそこにあったわけです。

ただですねぇ、1カ月ごとに移動しながら芝居をするという生活は、変化に富んでいるとはいえ、芝居そのものはマンネリ化して飽きてくるんですよね。しかも、私は集団生活というものに馴染めない性格もあって、もっと深くモノ作り、芝居作りをしてみたいとも思い始めるんです。

そこで、業界用語で言うところの「ドロン」。座長に手紙を書いて、劇団から逃げ出しました。私の大衆演劇時代はこうして、2年弱で幕を下ろしたのでした。

缶コーヒーを投げられた!?
蜷川スタジオでの修行の日々

ドロンした後は、どんな生活をしていたんですか?

阿南
今振り返ってみると、このころが一番貧乏だった時代です。それまで劇団とともに根なし草の生活だったから、東京に安アパートを見つけるのが先決だったんですけど、まったくお金がなくなってしまって、実家からの送金待ちの日々。

一度、公園に寝泊まりするしかないなぁと思ってホームレス生活に挑戦したんですけど、寒い季節だったからぜんぜん眠れなくてね。「申し訳ないけど、もう一晩泊めてくれ」って友だちに頼み込んで居候のような生活をしていましたよ。いやぁ、金がない生活の情けなさをこのときほど実感したことはなかったですね。

その後、阿南さんは「世界のニナガワ」として海外でも評価を受けた演出家・蜷川幸雄さんが設立したスタジオに所属しますね?

阿南
最初の出会いは、芝居の中の群衆として舞台に立つエキストラの募集だったんです。蜷川さんがすごい演出家だってことも知らなくて、どこでもいいから役者を続けられればいいって気持ちでした。

とはいえ、蜷川さんが演出家として、とても厳しい人だということは、スタジオに通い始めてすぐにわかりました。多くの役者が灰皿を投げつけられたという、「灰皿伝説」が有名ですけど、私の場合は灰皿じゃなくて缶コーヒーでしたね。「違うんだよ! ここに虹があるんだよ!」と何度もダメ出しされた末に、カポーンと缶が飛んできた。

それでも必死にしがみついていると、ある芝居のオーディションで評価されて、そこそこいい役をもらえたんです。人生初の大チャンスです。
ところがですよ、残念なことに稽古の期間にバイク事故を起こして、その役をふいにしてしまったんです。悔いても悔いきれない、痛恨のミスでした。

そんなことがあって、2年後にはスタジオから足が遠のいていってフェイドアウト……。本当に不遇で実りのない日々の連続だったんですけど、「役者をやめよう」と思ったことは一度もなかったのは、どういうことだったのか、まだ何か自分の中にエネルギーがあったんでしょうか。

蜷川スタジオをやめる前後には、名だたる映画監督に自分を売り込む手紙をセッセと送ったりもしていました。もちろん、返事をもらえることはめったになかったんですけど、役者として何とかメジャーになりたいと、自分なりにもがき続けていました。

俳優人生を決定づけた
東京サンシャインボーイズとの出会い

さて、1989年以降、阿南さんは東京サンシャインボーイズの公演の常連俳優となり、長かった不遇時代を脱することになるわけですが、最初は三谷幸喜さんからの出演依頼を辞退したそうですね?

阿南
そうなんですよねぇ。今でも三谷さんとその話をすると、「あのころの阿南ちゃんは天狗だった」って言われます。
でも、天狗になる要素なんて、これっぽっちもないんですけどね。さっき、映画監督に売り込みの手紙を送りまくった話をしましたよね。そのとき、林海象さんだけが会ってくれて、小さな役をもらったりしましたけど、当時の私はあいかわらず無名の役者だったんだから、天狗なんてとんでもないんですけどね(笑)。

だから、三谷さんが次の芝居でも声をかけてくれたときは、うれしかったですねぇ。期待に報いなきゃいけないと思いました。

三谷さんは「当て書き」といって、先に役者を決めてから、その役者をイメージしながら台本を書くんです。
初めて東京サンシャインボーイズの芝居に出たのは『天国から北へ3キロ』という作品でしたけど、主人公の女性のおじいちゃんの役をもらいました。28歳で死んだ曲芸パイロットで、時代を感じさせる為なのか大衆演劇のメイクで、思い出話を語るシーンがあります。
それから、4本目の『ブロードウェイの生活』って芝居では、着物姿に白塗りで踊っていました。

三谷さんはそんな風に台本を作るから、看板役者を引き立てるだけの死に役はひとりもいない、すべての役に必ず見せ場を作ってくれるんですね。だからこそ私も、そのイメージを超えるような演技をしようと頑張ることができました。

それまでの私は、どんな役をもらっても、どんな風に演じていいか、完璧に理解することができず、蜷川さんに缶コーヒーを投げつけられるような演技しかできなかったんですけど、三谷さんのところで初めて、芝居というものに真剣に向き合うことができるようになったと思います。本当に感謝、感謝ですね。

2本目に出演した『彦馬がゆく』の近藤勇役も、大好きな役でした。近藤勇というと、口の中に握りこぶしを入れることができたって逸話が有名なんですけど、ある日、三谷さんに「入る?」って聞かれたんで、「入るよ」と答えて口を無理矢理あけてこぶしを突っ込んだんです。以来、三谷さんに「できる?」って聞かれると、何でも「ああ、できるよ」って答えてました。

阿南さんが東京サンシャインボーイズの公演に加わるようになった1989年は、同劇団の旗揚げから6年目のこと。そのころから劇団の人気はうなぎ登りに上昇したそうですが、その様子をどんな風に見ていましたか?

阿南
最初に出演した『天国から北へ3キロ』は下北沢駅前劇場での上演で、全公演を通じた観客動員数は500人くらいだったんじゃないかな。

ところが、回を追うごとに倍のペースでお客さんが増えていって、1991年の『ショウ・マスト・ゴー・オン』の初演では、キャパ400人弱の本多劇場を連日満員にするほどの勢いでした。

お客さんが増えるということは、芝居中の笑いの量もそれに比例して増えるということですからね。舞台に立つ役者は、その人気の上昇ぶりを肌で感じていました。

興味深いお話をありがとうございます。後編のインタビューでは、劇団の解散のお話と、その後の俳優人生などについて、またじっくり語っていただきたいと思います。

後編記事はこちら→ 俳優・阿南健治に聞く【後編】60歳間近の気の持ちよう

池田純矢作・演出 エン*ゲキシリーズ最新作
いよいよ上演!イリュージョンで魅せる体感型演劇
エン*ゲキ #05 『-4D-imetor(フォーディメーター)』

エン*ゲキ #05 『-4D-imetor(フォーディメーター)』ビジュアル

池田純矢が作・演出を手掛けるエン*ゲキシリーズの5 作目となる最新作『-4D-imetor(フォーディメーター)』。当初2020 年5 月に予定していた上演は新型コロナウイルス感染症の影響により中止を余儀なくされたが、日程を2021 年8 月へと延期し、再始動。

エン*ゲキシリーズは、役者・池田純矢が自身の脚本・演出により、《演劇とは娯楽であるべきだ》の理念の基、誰もが楽しめる王道エンターテインメントに特化した公演を上演するために作られた企画。

5 作目となる最新作『-4D-imetor』のテーマとなるのは “量子力学”。四次元世界や超能力といった未解明のミステリーを“イリュージョンマジック”で魅せるという、演劇的インスピレーションにあふれた未だかつてない体感型演劇が生み出される。

池田純矢とともにW 主演を務めるのは、女優として様々な活躍で注目を集める生駒里奈。共演には、唯一無二の圧倒的な存在感で多彩なキャラクターを怪演する村田充、映画、TV ドラマ、舞台とジャンルを問わず活躍する松島庄汰、話題作で主演を務めるなど2.5 次元作品を中心に活躍する田村心、衝撃的なマジック“ブレインダイブ”で話題を呼び、本作ではイリュージョン監修も担う新子景視、そして、我らが阿南健治が最年長キャストとして貫禄を見せる。

多層的に壮大なスケールで繰り広げられるミステリー、
奇術×謎解き×演劇の融合による“アトラクション・エンターテインメント”が
いよいよ誕生する! 乞うご期待!

  • 出演:生駒里奈 池田純矢
    村田充 松島庄汰 田村心 新子景視
    阿南健治 ほか
  • 東京公演: 8月5日(木)~15日(日) 紀伊國屋ホール
  • 大阪公演: 8月28日(土)~29日(日) COOL JAPAN PARK OSAKA TT ホール
  • 公式Webサイト:https://enxgeki.com/

取材・文=内藤孝宏(ボブ内藤)
撮影=松谷佑増(TFK)

※掲載の内容は、記事公開時点のものです。情報に誤りがあればご報告ください。
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