かっこよい人

山田邦子インタビュー【前編】
60歳からの超ネアカ生活宣言!!

1980年に20歳の年で芸能界デビューし、1988~95年にかけてはNHK「好きなタレント調査」で8年連続1位に選ばれた山田邦子さん。最新刊である著書『生き抜く力』(祥伝社新書)では、生い立ちからデビューまでの20年間と、芸能生活40年間の日々を赤裸々に綴っている。
浮き沈みの激しい芸能界を明るく、たくましく生き抜いてきた山田邦子さんに、還暦以降の生き方について教えを乞おうと思う。

インタビューは前編、後編の2度に渡ってお送りします。

山田邦子(やまだ・くにこ)
1960年、東京生まれ。1980年に芸能活動開始。『オレたちひょうきん族』『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』などで人気になり、多数の冠番組を持つ。2007年、乳がんに罹患し、その体験からがんに対する知識と理解を呼びかける講演活動を開始。2008年、厚生労働省「がんに関する普及啓発懇談会」メンバーとなる。2020年には、YouTube「山田邦子 クニチャンネル」を開設した。
山田邦子 クニチャンネル
目次

「唯一天下をとった女ピン芸人」って何のこと?

邦子さんはこれまで、ゴールデンタイムの冠番組を数多く担当したことから「日本で唯一天下をとった女ピン芸人」と呼ばれますが、その呼び名にあまりしっくり来ていないそうですね?

山田
よく言われるんですけどね。もしかすると、関西風の表現かもしれないです。関東では男性の芸人さんでも、「オレは天下をとった」なんて自分から言う人、聞いたこともありませんしね。

そもそも「芸人」という呼び名も、厳密に言えば浅草とかの演芸場に出ている人たちのことであって、その世界の呼び名で言えば私のような人間は「色モノ」とか「お笑い」という言い方がしっくりきます。自分で職業欄に書くときは、「タレント」ですね。

とはいえ、著書を読んでみると、邦子さんが表に立つ人になるべくしてなったことがよくわかります。小さいころからクラスの人気者で、お嬢さま学校と言われた川村学園では、ファンクラブまであったそうですね。

山田
まず、東京の下町という、生まれ育った環境が大きかったと思います。近くに演芸場があって、小学生のころからよく通い、自分でもギャグを考えて、友達とふざけたりしていました。

ところが、中学からは当時お嬢様学校といわれた川村学園へ。
川村は幼稚園から短大(今は大学)までの一貫校でしたから、お楽しみ会のような催しのときは学年で400人、中学全体で1200人、高校まで合同だと2400人のお嬢様たちが講堂に集まるんですが、そこで下町から来たインチキお嬢様がモノマネやギャグを披露してどっかんどっかん笑いをとる快感を味わったわけです。

時代の流れも大きかったんでしょうね。当時、テレビでは漫才ブームが起こっていて、視聴者参加型番組というのが今と比べものにならないほどたくさんあったんです。

短大時代、早稲田大学の寄席演芸研究会に顔を出していた私は、「テレビで5分間のネタをやるバイトがあるんだけど」なんて誘いにヒョイヒョイと乗って、いろんな番組に顔を出すようになっていました。

邦子さんは、1981年にバスガイドネタの『邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)』でレコードデビューしますが、驚いたことにこのネタは短大時代にできたそうですね?

山田
それまで私の持ちネタは、学校の先生とか、アイドルとか、「魔法使いサリー」などのアニメのキャラクターのモノマネが多かったんですが、NHKの番組に出たとき、ディレクターから「NHK以外の番組のマンガはやっちゃダメ」と言われたんです。

ちょっと不服だったけど、その場にいた作家先生の「女性の職業をネタにしたら?」という提案をいただいて思いついたのがバスガイドネタ。
「みなさん右手をご覧くださいませ。一番高いのが、中指でございます」という、あれです。

最初はギャラ交渉も
スケジュール管理も全部自分でやっていた

フジテレビのお昼の番組『笑ってる場合ですよ!』の「お笑い君こそスターだ!」に出場したり、TBSのドラマ『野々村病院物語』で夏目雅子さんと共演したりしていたときは芸能事務所に所属せず、フリーで活動していたそうですね?

山田
そう、素人だった私が出演オファーをしてくれるプロデューサーやスタッフと直接会って、「(出演料は)いくらですか? (収録は)いつですか?」とやりとりしていました。

そんな私を見かねて太田プロダクションの方が、TBSの廊下を歩いている私を呼び止めて誘ってくれたんです。太田プロは当時、(ビート)たけしさんの所属事務所でしたが、私がたけしさんの番組によく出ていた関係で目をかけてくれたんですね。

ところが、当時21歳で芸能界のことなど何も知らず、クソ生意気だった私は、月に20万円という給料の額を聞いて「それくらいはもう稼いでいるので結構です」と断っちゃったんです。すると事務所の人が「ちょっと待っててね」といってどこかに行っちゃって、10分ほどして戻ってくると「30万円でどう?」と、急遽の賃上げに応じてくれたのでお願いすることにしたんです。

『野々村病院物語』は2クールで半年に渡って放映されたドラマでしたが、それが終わるときにちょうど、フジテレビの『オレたちひょうきん族』が始まって出演することになりました。フリーだった私が自分で受けた仕事でした。今思えばホイホイ決まってラッキーでしたが、ど素人過ぎてプロデューサーやスタッフの方々にいろいろご迷惑をかけていたんじゃないかと思います。40年以上も前のことですが。

伝説のバラエティ番組「ひょうきん族」で
私が丸坊主になった理由

『オレたちひょうきん族』は、テレビの歴史に大きな影響を与えた伝説的バラエティ番組です。番組開始からその渦中にいた邦子さんは、どんな風に周囲を見ていましたか?

山田
私にとっては短大を卒業して、その延長で始まった新しい学校という感じでした。
ただ、出演者はたけしさんを中心に、お笑いの世界でトップを争う個性派ぞろいでしたから、ついていくのが大変でした。

収録が終わると、「これ、来週の収録までに覚えておいて」と台本を渡されて必死に覚えるんですけど、いざ本番という日、控え室で出演者が集まっているところへたけしさんが「昨日こんなことがあってさー」なんて話で盛りあがると、「じゃあ、その話で本番行こう」といって急遽台本が差し替えになるなんてことは日常茶飯事。

そんな中で、私は番組スタート時から明石家さんまさんとの「ひょうきんニュース」というコーナーを担当させてもらいましたけど、途中から「ひょうきん絵かき歌」という企画も当たってうれしかったです。

番組が始まって4年目、邦子さんは丸坊主というヘアスタイルになって登場します。当時、女性の丸坊主は珍しく、衝撃的でしたが、やはり個性的な出演者への対抗心がそうさせたのでしょうか?

山田
いえいえ、対抗心なんて、そんな気持ちは1ミリもありませんでした。特別な意味みたいなものもなくて、単に便利だったからです。

当時は「ひょうきん族」だけじゃなくて、いろいろな番組を掛け持ちする中、時代劇にも出演していたんです。
時代劇のかつらは羽二重で地髪をまとめて被るんですが、これが結構ベタベタで、そのほかの支度を含めて1時間もかかるんです。おまけに、撮影が終わると髪がペターッとなっちゃって、次のバラエティなどの現場でそれを元通りにするのにまた時間がかかるんです。それで、「髪の毛がなかったらラクだなぁ」と。

つまり、かつらをつけたり、元に戻したりする1時間を惜しむほど、忙しい日々だったわけですね?

山田
その通り。ただ、そんな多忙生活の中で、3日ほどポッカリ休みをいただいたことがありました。

それまでずっと休みナシで働いてきましたから、人生初の海外旅行をしようと思って、行き先にニューヨークを選んだんです。弾丸機内泊です。

ところが、飛行機を降りてすぐ、時間もないのに、入国審査に引っかかってしまいました。パスポートの顔写真が、坊主頭の私と別人だと言われちゃったんです。
おまけに、当時の私はクレジットカードも持っていなかったから、コートの左右のポケットにそれぞれ100万円ずつ、裸の札束を入れていたので、さらに怪しまれてしまいました。

パスポートの写真を指さして「ディス・イズ・ミー」と、壊れたネコのおもちゃみたいにミーミーミーミーと叫んでいると、たまたま私の後に並んでいた日本人男性が流暢な英語で、「この人は日本人の女性コメディアンで、パスポートの女性と同一人物です」とたぶんそういう意味の説明をしてくれて事なきを得ました。今でもその人には感謝の気持ちでいっぱいです。

成人して社会人になったとはいえ、テレビの世界で揉まれながら、テレビの世界のことしか知らなかった20代の私は、とんでもない世間知らずだったのだと思います。

過労死寸前の超多忙生活

『オレたちひょうきん族』は1989年10月14日に放送終了をむかえますが、同年10月18日には同じフジテレビで『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(通称「やまかつ」)がスタートしています。当時、多忙を極めていた邦子さんは、テレビ局の楽屋に住んでいたという伝説がありますが、それは本当ですか?

山田
一番忙しかったときは週に14本、隔週のものを入れると16本もレギュラー番組を抱えていたので、それこそ寝る間を惜しんで働いていました。ですから、「楽屋に住んでた」わけではありませんが、頻繁に寝泊まりしていたのは確かです。

特に「やまかつ」では、合成映像を使って私が「魔法使いサリー」とか「ベルサイユの薔薇」とかの複数のキャラクターのモノマネをするコーナーがあって、衣装とメイクを何度も替えながら撮影をしていると、ひとつのシーンを撮り終えるのに30時、つまり朝の6時までかかったりするんです。で、次のシーンの撮影は何時かと聞くと「朝の6時です」なんて答えられて、寝る時間がなくなるんです。

このころ、「あ、気絶する」という経験もしました。視界が白くなって、音が聞こえなくなってシーンとなって、倒れるかな、と思ったんですけど、歩いているうちにだんだんと元に戻って倒れずに済みました。

人間、5日も睡眠をとらないでいると、そんなことになっちゃうんですね。

いつ過労死しても、おかしくない生活ですね。

山田
あのころはまだ若かったというのと、私を頑丈に産んでくれた親のおかげで何とか死なずに済んだんじゃないかと思います。

私だけではなくて、他のタレントさんや芸人さんも、それからスタッフの人たちも、そんな人間離れした生活をどこか楽しんでいるようなところがありました。「芸人の最期はのたれ死にだ」とか、「人生は太く短いほうがいい」なんて話、楽屋とかスタジオのあちこちで飛び交っていましたからね。

人気の反動でバッシングを受けるも
充実した日々を過ごす

1988年から1995年まで、8年連続でNHK「好きなタレント調査」の1位の座にいた邦子さんですが、順位が落ちていくと、人気の反動でバッシングを受けることがあったそうですね?

山田
好感度1位だったころ、「1位になって、どんな気持ちですか?」という質問をやたら受けましたけど、今度は「1位から落ちて、どんな気持ちですか?」と聞かれるようになったわけです。
始めのころは、「失礼な質問だよねー。あなたはどう思うの?」なんて言い返したこともあったけど、すぐにアホらしくなりました。

私自身は、本当に死ぬかと思うほどの超多忙生活から、やっと好きなことをできるという開放感もありましたから。

それまで、クルマの運転は事務所から禁じられていたので、自動車免許をとれたときは本当にうれしかったし、2000年に芸能生活20周年をむかえたときには、三越劇場の『夢番地一丁目』というお芝居で初座長公演をすることが出来ました。
舞台は本番前に1カ月以上の時間をかけて稽古をするので、テレビの仕事で忙しいときは挑戦したいと思っても、できないことだったんです。

2000年は三味線を始め、その後、長唄を習うことになった年でもあります。どんなきっかけがあったんですか?

山田
私は芸能界に入ってすぐに売れたから、下積み期間というものがまったくないんです。師匠についたこともなく、すべて自己流で芸を磨いてきましたが、そのことに心残りのようなものを感じていたんですね。

そこで、芸能生活20周年を機に、伝統芸能をイチからキチンと習いたいと思ったんです。ちょうど、邦子という名前の連想からNHK教育の『いろはに邦楽』というレギュラー番組に出演していて、人間国宝のお師匠さんたちと接する機会をいただいていたことも大きいです。

私はモノマネが得意なので、耳の良さには多少の自信があったんだけど、かえってそれがアダになることもありました。
というのも、邦楽の音階というのは、西洋音階でいうドレミファソラシドとはまったくの別物で、「ド」と「レ」の間に3つも4つも音階があったりするんです。始めは師匠から口立てで弾き方、唄い方を教わるんですが、音と音の違いが理解できなくて、上達するのにすごく時間がかかってしまって。

その結果、家元・師匠から「杵屋勝之邦(きねやかつのぶくに)」の芸名を許され、長唄杵勝会の歌舞伎座公演に名取として出演するまでに19年もの長い年月がかかりました。

でも、そのときは本当に大きな達成感があって、「芸人」の仲間入りができて一人前になった気がしました。いろいろと大変だったけど、チャレンジして本当によかったと思います。

乳がんになって、
私が神様からもらった「キャンサーギフト」

実は、とても充実していた40代を過ごしていた邦子さんですが、46歳のとき、『最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学』の特番に出演したことがきっかけで乳がんが発覚します。ショックだったでしょうね?

山田
当時は乳がんについて知識がなく、がんはもう少し年をとってからなる病気というイメージをもっていたのでビックリしました。でも、46歳という年齢は乳がんのストライクゾーンだということをあとで知りました。

胸の右に2つ、左に1つ、ステージ1の浸潤がんと非浸潤がんがあって、最初の手術で摘出したとき、思った以上に広がっているところがあって、医師の先生に「きれいに取らせてください」と言われて2度目の手術をしました。

2回目の手術のとき、「1回目の手術は失敗だったんですか?」と聞いたら、即座に「そうじゃありません」と真顔で返されました。先生の説明はとても丁寧でわかりやすかったし、入院したのは6日間くらいだったので仕事にも影響はほとんどありませんでした。

最近ではがんになったことを公表する芸能人は珍しくないですが、 邦子さんは早い時期から講演活動などを通じてがんに対する知識と理解を呼びかけています。どんな考えがあったのですか?

山田
2度の手術はどちらも成功だったけど、やはり心のどこかでは「転移して再発するんじゃないか」という不安はありました。だったら、これまで人前でしゃべることを生業にしてきた私にとって、自らの体験を語ることは使命なんじゃないかと思ったんです。

だから、がんを公表したのは、術後、放射線治療に移るある程度落ち着いたタイミングですることにしました。

なぜそのタイミングだったかというと、「乳がんになって怖いよ-、苦しいよー」なんてことしか言えない時期に無責任なメッセージを発信すれば、がんに対する間違ったイメージを世間に植えつけてしまうことになるからです。

今やがんは2人に1人はなる病気だし、定期的に検診して早期発見をすれば、治る病気なんです。そのことを多くの人に知ってもらいたかった。

乳がんを経験したことで、邦子さんにどんな変化がありましたか?

山田
がんになって、それまでの人生を振り返ることによって気づきを得たり、新しい出会いがあったり、日々の幸せや感謝の心を持ったりすることを、神様からの贈り物という意味で「キャンサーギフト」と呼ぶそうです。

私は、そんなギフトをたくさんいただきました。乳がんになったことで、本気で心配してくれる人に私はいかに囲まれていたことか、身をもって知りました。大げさですが、生き残ったこれからの人生は、もうお釣りのようなものと考えると、本当にやりたいことが見えてきたような気がするんです。

テレビ的には「乳がんになって怖いよ-、苦しいよー」というメッセージのほうが注目を集め、「数々の苦難を乗りこえて返り咲いた」というストーリーは日本人の感動を揺さぶるパターンなのでしょう。
でも、私はそういういやらしい話をするのが嫌いです。とにかく、デビューから一貫して「明るい」を担当してきた私は湿っぽい話が苦手なのです。すいません。

ともあれ、がんをきっかけに、多くの人たちが私を支えてくれていることがわかったし、仕事も楽しくなりました。元気で楽しく仕事ができるというのは、本当にありがたいこと。そのことに気づけたことが何よりでした。

興味深いお話、ありがとうございます。後編では、東日本大震災のボランティアの話、それからYouTubeなど新しいことへ挑戦する話、それからお母さんの介護の話など、あれこれお話をうかがっていきましょう。

後編記事はこちら→ 山田邦子インタビュー【後編】 大事なのは「生き抜く力」と「息抜く力」

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人情味あふれる東京下町で育ったお笑い好きの少女は、”勘違い力”を武器に芸能界デビュー。やがて週にレギュラーを14本抱え、「テレビで見ない日はない」という人気者になった。
本書は、還暦を過ぎてもなお、You Tubeや舞台と新しいことに挑む山田邦子の人生指南書。
夏目雅子さんや島倉千代子さんなど今は亡き大スターとの思い出や、「ひょうきん族」で苦楽をともにしたビートたけしさん、島田紳助さん、明石家さんまさんなどとのエピソードで振り返る山田邦子の生きる力の源とは――。
また、人気ランキングからの転落、乳がんの発覚時に見た人間の本性に対する心構えなど、絶頂と絶望を知るからこその言葉は、SNSによる誹謗中傷が社会問題となっている今、多くの人を勇気づけるものになるだろう。

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取材・文=内藤孝宏(ボブ内藤)
撮影=宮沢豪

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