かっこよい人

坂東眞理子インタビュー【前編】
マッチョな組織の中で生きのびる

今から15年前に上梓され、翌年の2007年の「年間ベストセラー総合1位」(トーハン発表)を記録した『女性の品格』(PHP新書)を執筆した坂東眞理子さん。
1969年に総理府(現・内閣府)に入府し、婦人問題担当室に異動になった際には日本初の『婦人白書』の執筆を担当した才女だが、公務員になったのは「自分を採用してくれる民間企業がなかった」という消極的な理由だったという。
男は仕事、女は家庭という「性別役割分担」が定着した高度経済成長期の中で、坂東さんはどのようにキャリアを築いていったのか?

記事は前編と後編、2回に分けて配信していきます。

坂東眞理子(ばんどう・まりこ)
1946年富山県生まれ。昭和女子大学理事長・総長。東京大学卒業後、69年に総理府入省。内閣広報室参事官、男女共同参画室長、埼玉県副知事などを経て、98年、女性初の総領事(オーストラリア・ブリスベン)になる。2001年、内閣府初代男女共同参画局長を務め退官。04年に昭和女子大学教授、同大学女性文化研究所長。07年に同大学学長、14年から理事長、16年から現職。330万部を超える大ベストセラーになった『女性の品格』ほか著書多数。
目次

「働き者の女性」を生む風土の中で、
私は「困った女の子」でした

坂東さんが生まれ育った富山県は、昔から女性の就業率が高く、「働き者のお母さん」が多い土地として知られていますね?

坂東
そうですね。女性の就業率がトップクラスに高いのは確かなんですけど、実は管理職に登用される女性は、ほかの地域より少ないんです。議員になる女性も含めて。

身を粉にして働いて職場や家を支えながら、決して上や表に出ることなく、堪え忍んで働くのが富山の女性の伝統的な生き方と言えそうですね。
明治44(1911)年生まれの私の母は、92歳で亡くなるまで介護保険のお世話にならないことを誇りにするような人でした。「自分の始末は自分でつける」ことを実践したわけです。

ただ、私自身は子どものころ、そんな母に反発をしたこともあったし、「女は気働きで勤勉でなければならない」という周囲の同調圧力に抵抗して、ひとり部屋にこもって本を読みふけるような、「困った女の子」でした。

でも、そんな「困った女の子」だったからこそ、上京して東京大学に進学するような道を選ばれたわけですね?

坂東
そうかもしれません。中学まで地元の公立中学で、高校から富山市内の進学校でしたけど、中学のクラスの中で4年制の大学に進学したのは男子で10%を超える程度。女子はさらに少なくて、5%以下だったと思います。

「大器晩成」という言葉が示すように、社会に出て、すぐには活躍できなくても、人生の中後盤になって花を咲かす生き方があるといいますが、それは男性向けの人生。
女性が社会で活躍しようとするなら、できるだけ早熟なほうがいいと私自身は思っていました。

身近にお手本にするような女性がいたわけではありませんでしたが、キュリー夫人の伝記とか、清少納言、紫式部などの本から受けた影響が大きかったですね。母が国文学専攻だったので、古典関連の書物が家にはたくさんあったんです。

「4年制大学卒業」という肩書きは
女性にとってむしろ不利だった

親元を離れて東京大学に通うようになったからの日々は、いかがでしたか?

坂東
当時は大学に進学するのに1浪とか2浪とかするのが当たり前でしたので、同級生がみんな大人びて見えましたね。こちらは田舎から出てきたイモねぇちゃんでしたから、それも当然かもしれません(笑)。

将来の職業に対するイメージもなく、大学1、2年は友人と遊んだり、クラブ活動に専念したりしていました。ですから自分が将来、どのような社会人になるのかということについては、あまり深くは考えていなかったように思います。

ところが、卒業の年が近づいてきて、「就職」の2字が視界に入り始めると、「このままではまずいぞ」という危機感が深くなってきました。
というのも、卒業の年である昭和44(1969)年は、高度経済成長のまっただ中で男子学生は引っ張りだこだったのに比べて、女子学生にはまったくお呼びがかからなかったんです。試験さえ受けさせてくれなかったから、文字どおりの門前払いです。

社会人になる手前で、男女の雇用格差を目の当たりにしてしまったわけですね?

坂東
これが4年制の大学ではなくて、短大の学生だったら話が変わるんです。

当時、企業の人事部で働いていた人の話を聞くと、「女子の面接の選考基準は、ウチの社員の嫁さんとしてふさわしいか、ということだった」とよく言われました。
頭がよくて、すぐに実務をこなせる優秀な人かどうかということは関係なく、容姿端麗で性格も明るく、小まめにいろいろなことに気づいて社員の仕事を補助してくれるような女性が求められていたんですね。

就職先を総理府(現・内閣府)に選んだのは、私にとって積極的な選択ではなく、「民間の企業に見向きもされなかったから」という消極的な理由からでした。

婦人問題担当室に異動になったとき、
最初は乗り気にはなれませんでした

公務員は当時、平均2年ごとの人事異動でいろいろな部署の仕事を経験するそうですが、現在の男女共同参画室の前身にあたる婦人問題担当室で最年少の担当官になった坂東さんは、1978年に日本初の『婦人白書』の執筆を担当します。すごい活躍ですね?

坂東
正直なところ、最初は気が進みませんでした。

学生時代、学内には「婦人問題研究会」とか「女性問題を考える会」といったグループがありましたが、私はそうした学生運動とは無縁のノンポリでしたので、この問題について、それほどくわしい知識をもっていたわけではありませんでしたから。

ただ、異動の前に3年間、青少年対策本部にいて、『青少年白書』の執筆に3回関わった経験を活用したいと『婦人白書』の執筆をまかされたときは、「この仕事が私の公務員デビューと言える仕事になるかもしれない」という予感がありました。実際、このときに出会った課題は、私のライフワークになりました。

その『婦人白書』は、当時の婦人問題のどんな状況をレポートした文書だったのですか?

坂東
女性の労働力率(15歳以上人口に占める労働力人口の割合)は、結婚・出産期にあたる年代にいったん低下し、育児が落ち着いた時期に再び上昇するという、いわゆる「M字カーブ」を描くことが知られています。

女性の年齢階級別労働力率の推移
『令和2年版男女共同参画白書』より 出典:総務省「労働力調査(基本集計)」

坂東
私が『婦人白書』を執筆した昭和53(1978)年は、このM字の谷がもっとも深かった年にあたります。ちょうど、団塊の世代と呼ばれる第一次ベビーブーマーたちが結婚・出産期をむかえた年です。

当時、「女性の年齢=クリスマスケーキ説」なんて言葉があったのをよく覚えています。どういう意味かというと、クリスマスケーキは24日(24歳)に売るときがもっとも価値が高く、25日(25歳)を過ぎると売れ残りになって、あとは割引セールで処分されるしかない。だから女性もクリスマスケーキと同様、自らの売りどきを考えて早くに結婚したほうがよいという理屈。今の価値観から考えると、ひどい話ですね。

かく言う私も昭和45(1970)年に24歳で結婚しているんですが、その年の11月には友だちの結婚式が4件もありました。

その背景には、サラリーマン家庭が社会の主流を占めるようになったことがあって、「会社員のお父さんと専業主婦のお母さんに1人か2人の子ども」という画一的な家族モデルが定着したことを示しています。

それは、『婦人白書』の中で「深い谷をもつM字カーブを緩和しなければなりません」と訴えても、容易に社会が動かないほどの大きな時代の流れでした。そして、私が公務員の仕事以外のところで『女性は挑戦する─キャリア・ガールの生き方』(主婦の友社)をはじめとする執筆活動を始めるきっかけにもなりました。

私が社会の中で感じた、
「モヤモヤとした違和感」の正体

33歳のときには、米国ハーバード大学に留学をされてますね。どんな動機があったのですか?

坂東
当時、すでに子どももいましたし、総理府内でも「30歳を過ぎて留学しても、若いときと違って英語は身につかないよ」とか、「将来の出世にはマイナスだよ」というネガティブな意見をたくさん聞きました。

にもかかわらず留学を決意したのは、単に憧れがあったことと、ウーマン・リブの名のもとに女性が社会参加しているアメリカ社会の実態をこの目で見たいと思ったからでした。

坂東さんの目に、アメリカ社会はどのように見えましたか?

坂東
確かに想像どおり、アメリカには社会で活躍している女性はたくさんいましたけれども、それは彼女たちが男社会と闘って勝ちとってきた結果であって、その闘いはずっと続いているんだということがわかりました。

というのも、アメリカというのは日本以上にマッチョな男性が権力を握っていて、「オレは強いんだ」、「オレが稼いでいるんだ」と大きな声を上げる、そう、前大統領のトランプさんみたいな人が社会の中心にいることに気づいたんです。

アメリカ女性は、そんな強敵と闘っていたのですね!

坂東
ある女性は、私にこう教えてくれました。

「かつて未婚の女性は公の場では『ミス・メアリー』とか、『ミス・グロリア』と敬称つきのファースト・ネームで呼ばれたけど、結婚して『ミセス』になった途端、ファースト・ネームが消えて夫の名前で呼ばれたのよ。それも大昔の話じゃなくて、つい10数年前までそれが当たり前のことだったの」と。

その後、未婚・既婚の区別なしの「ミズ」という敬称が提唱されて、アメリカ政府の公式文書にも「ミズ」が採用されたのは、1970年代始めのことです。

女性の権利は、社会が平等に分け与えてくれるものなのではなく、女性が自ら男たちと闘って勝ちとらねばならないものだったのですね。

坂東
そう、そのとおりです。

ですから昭和50(1970)年、国連による「国際婦人年世界会議」がメキシコシティで開催されたことは、とても意味のあることでした。
この会議では、男女平等の推進をめぐる、さまざまな宣言が出されたわけですが、中でも私が衝撃を受けたのは、男は仕事、女は家庭という「固定的性別役割分担」が諸悪の根源であると規定されたことでした。

それまでずっと、社会に揉まれる中でモヤモヤと感じていた違和感に「性別役割分担」という名前がついたことで、私の中で何もかもがスッキリと腑に落ちました。
「あなたは女の子なんだから、明るくかわいらしくしていればそれでいい」とか、「女の子はまめまめしく男の人の世話をするべきだ」という周囲の要求に応えられていない自分って何なんだろうと疑問を感じていた私に、「そうか! それは、『性別役割分担』という枠組みに私がはみ出していたからなんだ」と気づかせてくれたんです。言葉の力って、すごいですね。

女性の社会進出というのは、国や地域などの違いによって濃淡がありますが、おそらく、「国際婦人年世界会議」は世界中の多くの女性にそれを気づかせるきっかけになったと思います。


政府内で婦人問題の解決を
推進したのは「外圧」だった

「国際婦人年世界会議」の宣言は、当時の日本社会にどんな影響を与えたのでしょう?

坂東
当時、国連は昭和60(1985)年までの期間を「国連女性の10年」と定めて、女性の地位を向上させるための努力を世界的規模で行うことを推奨しました。

これを受けて日本でも、内閣総理大臣を本部長とする婦人問題企画推進本部(後の男女共同参画推進本部)が設けられました。
そのころ、私は青少年対策本部などの仕事をしていましたけど、同推進本部に専門官(課長補佐クラス)として異動になって、その後いろんなポストを経て1993年には婦人問題担当室長に任命されました。婦人問題に正面から取り組むことになったわけです。

最初に手掛けたのは、業務を行う審議会の委員の女性比率をあげることです。当時の審議会の女性委員はわずか2.6%しかいませんでしたが、これを10年間で10%に増やしましょうという目標を掲げたんです(現在では36%になっています)。
それから、各省庁の人事課長を訪ねていって「女性の上級職の比率を高めてください」とお願いしてまわりました。

日本の官僚というのは、優秀である反面、大きな改革に及び腰になる保守的な傾向がありますが、それと同事に「外圧」に弱いという性格ももっています。このときは、国連が定めた世界行動計画という「外圧」がありましたから、婦人問題という課題を解決する、新しい仕事に着手する際に心強い武器になってくれました。

雇用の差別については、
経済界も「外圧」に抵抗した

昭和60(1985)年には男女雇用機会均等法 ※注1 が施行されて、行政官だけでなく、民間企業でも男女間の雇用差別を撤廃しようとする法律が定められましたが、こちらの動きはどうだったのでしょう?

坂東
昭和60(1985)年というのは、先ほどの話に出ました「国連女性の10年」の最後の年で、男女雇用機会均等法は、このときに国連が定めた「女子差別撤廃条約」に批准するために制定された法律です。

やはりこれも「外圧」によって生まれた法律ということになるわけですが、残念ながら、経済界の激しい抵抗にあって骨抜きにされてしまいました。この法律は、募集・採用、配置・昇進などについて、男女差をつけることを「禁止」するものではなく、「なくすよう努力する」に留めていたからです。

当時、労働基準法には「女子保護規定」というものがあって、後に撤廃されますが、深夜労働や残業、休日労働、危険有害労働などから保護されていました。「そんな女性を男性と同じに扱うわけにはいかない」というのが経済界の本音だったんですね。
女性を「労働者」とは考えず、あいかわらず「社員の嫁さん」ととらえて男性社員を24時間働かせたい、というわけです。

初めて男女差を「禁止」することを定めた男女雇用機会均等法が成立したのは、平成9(1997)年の改正によるもので、労働基準法の女性保護規定が撤廃されて経済界は渋々、法改正に同意したのです。渋々とね。

※注1「男女雇用機会均等法」/正式には「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」という。

日本の女性の社会進出は、
いまだに100点満点中で60点

男女雇用機会均等法が男女の差別を「禁止」する法律になったのは、「国連女性の10年」の最初の年から数えて19年かかったことになります。長い闘いでしたね。

坂東
その一方で、1992年(平成4年)4月1日に施行された育児・介護休業法 ※注2 のほうは、スルスルととおったんです。

これは、育児や介護のための休業について、主にその期間と休業中の手当の支給額などについて定めたもので、女性の働き方について大きな影響を及ぼす法律なんですが、その後の改正によって現在の手当は給与の3分の2に、期間は2年まで認められるようになりました。

その背景には、平成元(1989)年に女性1人が産む子どもの数の平均を示す合計特殊出生率が1.57になって、「丙午」の影響で一時的に下がった昭和41(1966)年の1.58を下回った、いわゆる「1.57ショック」が起こったことがあります。

「子どもが少なくなる」というのは、「労働力が減る,消費者が減る」ということに直接つながりますから、経済界もこの法律の成立に賛成としか言えなかったわけです。中には、「このままでは日本の国土に日本人が1人もいなくなるかもしれない」なんて声もあがったりして、育児・介護休業法はどんどん充実した法律になっていきました。

この法律は「女性のため」を考えて成立したものではなくて、「経済のため」、「子どもを増やすため」に制定されたものでしたが、女性の権利というのは、こうした時の運に左右されたりしながらも、少しずつ前進していったのです。

ところで、男女間のすべての差別が撤廃された理想の社会があるとして、今の日本の社会はどこまで近づいていると思いますか?

坂東
そうですね。私が社会人になったばかりのころを100点満点で40点だったと評価すると、今は60点を超えたところ、少なくともまだ70点には達していないというのが私の正直な感想です。

世界経済フォーラムは、「ジェンダー・ギャップ指数」の国際比較を毎年発表していますが、2021年の日本の順位は156か国中120位(昨年は153か国中121位)でした。この指数は、「経済」「政治」「教育」「健康」の4つの分野のデータから作成されますが、まだまだ改善すべき点が今の日本にはたくさんあると思っています。

興味深いお話、どうもありがとうございます。インタビュー後編では、つねに多忙だった坂東さんが仕事と子育てを両立させたコツ、それからベストセラーとなった『女性の品格』(PHP新書)を執筆したいきさつなどについて、うかがっていくことにしましょう。

※注2「育児・介護休業法」/正式には「育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律」という。

後編記事はこちら→ 坂東眞理子インタビュー【後編】 コロナをチャンスに変える生き方

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取材・文=内藤孝宏(ボブ内藤)
撮影=宮沢豪

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