かっこよい人

くわまんに聞く!【前編】オレが60代で大腸がんになるまでのハチャメチャ人生

シャネルズ(現ラッツ&スター)のトランペッターで、バラエティ番組でも活躍している「くわまん」こと桑野信義さん。
そんな桑野さんが、自身の大腸がんとの闘病記録を綴った『がんばろうとしない生き方』(KADOKAWA)を上梓した。
そこで、これまでの人生を振り返ってもらうとともに、病気との出会いをきっかけに経験した人生のターニングポイントについて、じっくり語ってもらおう。

インタビューは前編と後編に分けて公開します。

桑野信義(くわの・のぶよし)
トランペット奏者、歌手、コメディアン。1957年生まれ。シャネルズを結成してデビュー。後にグループ名をラッツ&スターに改名。『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ系)で本格的にお笑いの仕事も始める。2020年に大腸がんの宣告を受け、2021年に手術を行った。コンサートステージへの復帰を果たし、現在はがん寛解に向けて生活改善をしながら芸能活動を続けている。
目次

ミュージシャンの道を選んだのは、
実は消極的な選択でした

ミュージシャンであり、タレント、コメディアンとして活躍している桑野さんですが、子どものころは、どんな職業に就きたいと思っていたんですか?

桑野
小さいころは、消防士になりたいと思ってました。なぜかというと小学3年生のとき、家の前の空き地だった土地に消防署が建ったんです。そこで働く消防士の人たちはみんな、やさしい人たちで、暇なときに遊んでもらったりしていてね。

消防車とか救急車の要請があると、無線の音が家まで聞こえくるんです。すると、自転車に飛び乗って、現場に先回りして、消防士の人たちが来るのを待ってる(笑)。そのくらい彼らに憧れて、BFC(Boys and girls fire club)っていう消防少年団にも入ってました。

トランペットを吹き始めたのは、それと同じくらいの年ごろだったのかなぁ。
親父がプロのトランペッターだったから、おもちゃ替わりに中古の楽器をあてがわれていて、自己流で吹いてたんです。
そんなこともあって高校3年生になったとき、学校の先生から進路を聞かれて、「机に向かってする仕事はオレには絶対に向いていないから」という消極的な理由でミュージシャンになる道を選んだんです。

ただ、両親は「公務員とか銀行員とか、堅い職業に就け」という人たちだったから、大反対。ミュージシャンの暮らしがいかに不安定で先の見えないものかって話を懇々と聞かされました。
でも、親父は内心、うれしさもあったんでしょうね。「人にこき使われる勤め人には絶対にならない」と頑なな態度を見せるオレに、ナイトクラブで演奏しているジャズバンドの仕事を紹介してくれました。いちばん端っこの4番目のトランペッターだったから、最初は無給でしたけどね。

そんな桑野さんに「手伝ってくれ」と声をかけてきたのが、地元のひとつ上の先輩のリーダーこと鈴木雅之さんだったわけですね?

桑野
そうです、そうです。1976年のことで、シャネルズはその1年前にリーダーが結成したんだけど、サックスを吹いていたメンバーがひとり抜けることになって、オレがその替わりに加入することになったわけです。

当時、シャネルズが目指していたのは、ヤマハが主催する「EAST WEST」っていうアマチュアバンドのコンテストに入賞することでした。一緒に競いあったバンドにはサザンオールスターズとか、カシオペアがいました。

メンバーはみんな仕事を持っていて、練習は夜になってからだから、オレもクラブのバンドの仕事を辞めてガソリンスタンドの店員とか、配送ドライバーとかの仕事に就いて、昼に働くことにしました。

モロゾフの洋菓子を百貨店に配送していたころ、横浜の三越で山本山の店舗の店長をしていた(佐藤)善雄くんとバッタリ顔を合わせたりしたこともあります。朝、パートのおばさんを前にして、低音ボイスで朝礼をしているのを何度か見かけましたよ。

『ランナウェイ』がヒットしても
トラックを運転しながら首をひねってました

シャネルズは、プロ志向のあるバンドだったんですか?

桑野
いや、オレを含めて、バンドでプロになろうと思ってる人は、いなかったと思うよ。それぞれが別に仕事を持っていて、「EAST WESTで優勝するまではやろうな」って感じだったし、レコード会社から「メジャデビューしないか?」という誘いを受けても、ずっと断ってました。

ただ、『ランナウェイ』がヒットして、そうも言ってられなくなっちゃった。

当時、大滝詠一さんや山下達郎さんが数多くのCMソングを制作していて、ときどきアマチュアバンドだったオレたちにも声をかけてくれて、何曲かお手伝いしたりしていたんだけど、『ランナウェイ』はそのなかの一曲でした。

ランナウェイというのは、パイオニアが発売したラジカセの新製品の名前で、テレビCMの挿入歌だから最初にレコーディングしたときは1コーラスの短い曲でした。それが評判を呼んでレコード化することになって、歌詞とメロディを加えてフルコーラスでレコーディングし直したんです。

作詞が湯川れい子さんで、作曲が井上忠夫さん。エピック・ソニーからデビューすることになったんだけど、このときもまだ「いい思い出になればいいな」なんて気でいました。みんな仕事のほうは休職扱いにしてもらって、いつでも職場復帰できるようにしてましたね。

ところが、シャネルズのデビュー曲となった『ランナウェイ』は、あれよあれよという間に売れて、ミリオンセールを記録します。

桑野
でも、本人たちには「売れた」という実感はすぐにはなかったと思う。オレ自身、当時は日通の航空便の荷物を空港の倉庫に運ぶ仕事をしていたんだけど、途中で立ち寄る定食屋とかで『ランナウェイ』が流れているのを聞いて、不思議な気分がしたのをよく覚えてます。運送屋のユニフォームを着た隣の席のドライバーに「このラッパ、オレが吹いてるんスよ」なんて話しかけても信じてもらえないだろうから、黙って聞いてたなぁ。トラックを運転していても、ラジオをつければひっきりなしに『ランナウェイ』が聞こえてくる。そのたびに、「どうなっちゃってんだ?」って首をひねってた。

ミュージシャンだけじゃなくて、
コメディアンへの憧れは昔からあったんです

その後、シャネルズはバンド名をラッツ&スターに変更して以降も、『め組のひと』などのヒット曲を次々と生み出していき、桑野さんは名実ともに「プロのミュージシャン」になるわけですが、やがてバラエティ番組にも出演するようになります。どんなきっかけがあったのですか?

桑野
最初に声をかけてくれたのは、テレビ朝日のプロデューサーでした。堺正章さんが司会をつとめる歌謡番組で、「じゃんけんマン」というリポーター役に起用されたんです。

演歌からポップスまで、いろんな流行歌をお茶の間に届ける番組だったんだけど、オレは「じゃんけん娘」っていうアシスタントとコンビを組んで、いろんな街の商店街なんかから中継して、スタジオの堺さんとじゃんけんをさせるアシスト役でした。じゃんけんで勝った人は、自分の店を宣伝できたり、賞品をもらえるというルールでね。

音楽活動とは正反対の仕事ですね。抵抗感はなかったですか?

桑野
さすがにレコード会社には「アーティストのイメージダウンにつながる」みたいな意見があったそうだけど、所属事務所のほうでは「チャレンジしたいならやってみろ」って背中を押してくれました。
オレ自身、おもしろいことが好きだったし、そういうものをやってみたいと思ってたから、ありがたかったですよ。

そもそも、ミュージシャンがコメディの世界で活躍するのって、昔からある種の伝統のようなものがあるよね。アメリカでは、フランク・シナトラ一家のディーン・マーチンやサミー・デイビスJrといったエンターティナーがいたし、日本でもジャズドラマーのフランキー堺さんをはじめ、クレイジー・キャッツやドリフターズといった人たちがジャンルの垣根を越えて活躍してました。

そういう先人たちへの憧れがあったから、「じゃんけんマン」になるのに抵抗感はまったくなかったんだと思います。シャネルズはライブでも、曲の合間にコントとかトークでお客さんを湧かしたりもしてたしね。

人生の師匠、志村けんさんとの出会い

とはいえ、1987年に『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ系)のメンバーに起用されたときは、さすがに驚いたんじゃないですか?

桑野
そりゃ、ビビりましたよ。事務所の社長がもともと渡辺プロダクションのベテランマネージャーだったから、ドリフターズの面々がアマチュア時代のオレたちのステージを観にきてくれたりして交流があったんだけど、そのなかでも志村さんは憧れの存在だったから。

これは、後になって聞いたことなんだけど、志村さんはピンでの冠番組を立ち上げるにあたって、喜劇畑のコメディアンじゃなくて、オレのようなミュージシャンだったり、アイドルだったり、それまでコント作りを経験していない人間をあえてメインに起用したんだそうです。そうすることで、コントに新しいリズムや間を作ろうとしていたんだね。
そんな志村師匠の期待に応えようと、必死で番組作りに臨む毎日でした。

おそらく当時、かなりの多忙生活だったんじゃないですか?

桑野
もちろん。1カ月のうち、家に帰るのが数日しかないほどの生活が長く続きました。

『だいじょうぶだぁ』の収録は月曜だったんですけど、昼から始めて、終わるのが翌日の朝方の3時とか4時くらい。師匠はお酒が大好きな人ですから、そのあとは新宿にある「ひとみ」っていう24時間営業の居酒屋に直行して打ち上げです。
ちなみにその店で、いつも接客してくれるお婆さんが志村師匠のお気に入りキャラ「ひとみばあさん」のモデルなんです。師匠はそうやって自分の多忙な日常のなかで起こることをリアルタイムでコントに取り入れてましたね。

オレもお酒は大好きだったから、朝の9時とか10時くらいまで師匠とお付き合いして、その後は一睡もせずにスタジオアルタに行って、火曜の『笑っていいとも!』のレギュラーコーナーに出演してました。放送前、出演者はタモリさんの楽屋を訪ねてあいさつをするのが常識なんだけど、オレは酔っ払ってるのがバレちゃいけないからと本番の直前まであいさつしませんでした。きっと、「失礼なヤツだな」と思われてたんじゃないかな。

がん告知したとき先生は、
「大丈夫です」とは言ってくれなかった

めまぐるしい多忙生活のなかで、健康に気を遣う余裕はなかったでしょうね。

桑野
そうですね。お酒は毎日浴びるように飲んでたし、食事も睡眠も不規則そのもの。肝臓の数値は、つねに最低でした。よく体がもったなと、自分でも感心するくらい。

ただ、40代後半に糖尿になってからは少しは健康に気をつけるようになりました。ウォーキングを始めて、100㎏近くあった体重を62㎏まで落としたりして。
このとき、「なんだ、やればできるんじゃないか」と調子こいたのが今思えばよくなかったんだろうね。すぐに元の不規則な生活に戻って、生活改善は中途半端なものに終わってしまいました。

そんな桑野さんが63歳になった2020年9月、大腸がんを告知されます。前兆のようなものはあったのでしょうか?

桑野
お酒のせいもあるんだろうけど、お腹はつねにゆるい状態で。仕事で旅回りをするときは、どこにトイレがあるかをまずチェックするのが癖になってました。

でも、がんが発覚する直前は、便秘に悩まされるようになりました。いかにも出そうなのに、何度トイレに行っても出てくれない。
「おかしいなぁ」と思っていると、血便が出るようになったんです。
それでも、「これは痔なんだ。がんであるはずがない」と自分で思い込もうとしていたというか、しばらくは誰にも言わずにいました。

そのうち、大好きなお酒もノドを通らなくなって、何度もトイレ通いをするオレを心配する家族のすすめもあって、病院に行くことにしたんです。
検査をした結果、肛門の近くに内視鏡ではとれないほどのデカいがんがあって、それが腸をふさいでいることが便秘の原因だったと知らされました。

先生の説明では、「ステージ3から4のあいだになる」ということでした。
その段階でオレには何の知識もなかったんだけど、ステージ3はリンパ節への転移が認められている状態で、ステージ4は他の臓器への転移が認められている末期の状態なんです。

そのとき、まず口をついて出てきたのは「まだ大丈夫ですよね。間に合いますよね?」という言葉でした。
それに対して先生が言ったのは、「う~ん、やってみましょう」という言葉。「大丈夫です」とも、「治るがんですよ」とも言ってくれないわけです。

このとき初めて、オレは自分が死と隣合わせの、のっぴきならない状態に直面しているということを実感したんです。

興味深いお話、ありがとうございます。後編のインタビューでは、がん告知を受けたあとの治療のお話、抗がん剤の副作用に苦しんだときのお話、今後の希望などについて、お聞きしていくことにしましょう。


後編記事はこちら→ くわまんに聞く!【後編】がんがオレに教えてくれた、何気ない日常のありがたさ、楽しみ方

 

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弱虫なオレだけど、前へと歩き続けられた!

同じような経験をして苦しんでいるひとに、とても「がんばれ」とは言えない――。
頑張ったって、痛みも苦しみも消えてくれない。
すべて受け入れる。
だけど、あきらめない。
桑マンがくじけず闘うなかで見つけた生き方を明かす。
シャネルズ( 現ラッツ&スター)40周年記念ツアーを控えていたとき、
大腸がん(ステージ3b)、リンパへの転移が判明。
桑マンの闘病の日々が始まった――。
「またみんなの前で、トランペット&ホラ吹きまくります!」
苦しさを乗り越えるヒントがきっと見つかる!

目次

  • はじめに
  • 第1章 告知――正直、怖かった
    • 「内視鏡検査」を受けるのが怖かった
    • がんだと告知されて大ショック
    • 抗がん剤治療と人工肛門
    • 「生きた証」として、闘病の日々を記録
  • 第2章 治療――ファイトだ、桑野
    • こんなにあっけなくオレは死んじゃうのか……
    • 副作用はいまも残っている
    • クリスマスと正月は家で過ごせた
    • 抗がん剤治療の結果発表
  • 第3章 手術――恥ずかしいことはなくなった
    • 「ダヴィンチ手術」でがんを切除
    • 「人工肛門はどっちについてますか?」
    • ラッツ&スターへの想いは、日本でオレがいちばん!
    • あと何回桜を見れるのだろうか
  • 第4章 音楽――ただいま! みんな
    • 抗がん剤をやめる決断
    • 人工肛門に愛着が湧いてきていた
    • 夢に出てきてくれた志村けん師匠
    • 神様がいるなら許してください
    • そして大阪公演! 本当に帰ってこられました
  • 第5章 笑顔――恩を返していくんだ
    • 腫瘍マーカー検査と免疫力アップ大作戦
    • クッキングパパも復活!
    • 模範囚にも近い、優等生な毎日
    • トランペットを持って日本全国を回りたい
    • 簡単には死ねない! 絶対に生きていきます

取材・文=内藤孝宏(ボブ内藤)
撮影=松谷祐増(TFK)

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