かっこよい人

三遊亭好楽インタビュー【後編】
ウサギとカメだったら、カメのほうがいい

前編のインタビューでは、落語家になったきっかけから、大好きなお酒との付き合い方などについて話してくれた好楽さん。
後編では、『笑点』の降板と再復帰のいきさつから、弟子たちとの付き合い方などについて、ざっくばらんに聞いてみた。
落語ファンならずとも心温まる必見のインタビューだ。

前編記事はこちら→三遊亭好楽に聞く!【前編】芸歴56年のあたしが落語家になったワケ

三遊亭好楽
1946年、東京都東池袋生まれ。1966年、八代目林家正蔵(のちの彦六)に入門。林家九蔵を名乗る。1971年、二ツ目に昇進。1979年、『笑点』の大喜利メンバーに抜擢される。1981年、真打に昇進。1982年、林家正蔵の死にともない、五代目三遊亭円楽に入門。三遊亭好楽に名を改める。同年、『笑点』降板後、4年のブランクを経て復帰。現在に至る。長男は2009年に真打に昇進した三遊亭王楽。
目次

大企業から中小企業に左遷。
「九蔵」から「好楽」になる

好楽さんの名を全国区に知らしめたのは、『笑点』大喜利メンバーになったことが大きかったと思うんですが、当初はまだ真打にあがる前の二ツ目で、林家九蔵を名乗っていた時代なんですね?

好楽
そうです。あたしが『笑点』大喜利メンバーになったのは1979年。大喜利の司会は三波伸介さんがやっていたころですけど、その2年前には当時の三遊亭楽太郎、いまの六代目円楽があたしより先に二ツ目でレギュラーになってます。

ただ、「全国区に名を知らしめた」とは、お世辞にも言えませんよ。というのも、「落語界の玉三郎」なんてキャッチフレーズをこしらえてデビューしたものの、早くも4年後には番組を降板、つまりクビになっているんです。

『笑点』は、1966年の放送開始から56年にわたる長寿番組なので、いまの人には、そのあたりのいきさつを知らない人も多いでしょう。くわしく聞かせてくれませんか?

好楽
あたしがかつて、売り出し中だった五代目三遊亭円楽の弟子になろうとしていたことは前編のインタビューでもお話ししましたね。

円楽には前座時代からかわいがられてましたから、あたしが二ツ目で林家九蔵として『笑点』大喜利メンバーになってすぐ、円楽が開いた星企画という芸能事務所に所属したんです。星企画というのは、当時の円楽が「星の王子さま」というニックネームで呼ばれていたことにちなんで名づけられたものです。

ですから、円楽と楽太郎(当時)とも、地方公演で一緒に旅する機会が多くありました。
そんな縁があって、師匠の八代目林家正蔵が亡くなった1年間は喪に服し、翌年の1983年に円楽に弟子入りして、林家九蔵改め、三遊亭好楽になったわけです。

修行仲間や師匠連をはじめ、長年連れ添ったカミさんも生涯、あたしのことを「九ちゃん」と呼んでいただけに、名前を改めるには正直、抵抗があったけど、心機一転、精進しようと心を改めました。

しのぶ亭の楽屋に飾られている五代目三遊亭円楽のポートレート

内心はショックだった
師匠からの『笑点』降板宣告

落語協会から円楽一門に移った好楽さんは当時、「なにも大企業から中小企業に行くことはないだろう」とウワサされていたそうですね?

好楽
円楽一門会は、落語協会の分裂騒ぎで東京の主要な寄席の高座にあがることができませんでしたから、「大企業から中小企業へ」という例えは間違ってないんですけど、あたしはまったく気にしませんでした。なんたって、大好きな五代目円楽の弟子になるというのは、落語家を志してからの夢でしたから。

円楽は、テレビの世界で活躍し、お茶の間から落語を世に広めるのに貢献した人ですけど、落語について、つねに真摯に向き合っている人でした。

「あのね、お前。ライバルが6時間稽古していたら、お前は8時間稽古をしないといけないよ」とは、よく言われていた言葉。

「壁に向かって稽古をするのも口が慣れていいけど、お客の前でしゃべるのがいちばんの稽古だよ」なんて言葉もよく覚えています。その考えは、あたしがしのぶ亭を開いたことにも繋がってると思います。

そんな円楽がある日、旅公演の移動中の電車の中で、あたしにこう言いました。
「みんなで話し合ったのだけど、『笑点』のお前の出番は、今度の収録でおしまいだからね」と。隣には同じ大喜利メンバーの楽太郎もいました。事務的な要件を伝えたような、ごくあったりとした口調でした。
「はい、わかりました」とあたしもあっさりと答えましたが、内心では「クビになっちゃったよ!」とショックを受けてました。

でも、円楽が「みんなで話し合った」というのだから、あたしの降板はプロデューサーやスタッフたちの総意でもあるんだろうから、口答えしませんでした。あたしの実力はそんなもんだ。ならば反省して、これからもっと勉強すればいい、そう思っていさぎよく『笑点』とお別れしました。

「落語界の玉三郎」から
開きなおって「貧乏」キャラで復活

その後の1988年、好楽さんは4年のブランクを経て『笑点』に復帰しますが、どんないきさつがあったのですか?

好楽
あたしに降板の引導を渡したのは円楽でしたが、復帰のために尽力してくれたのも円楽でした。

ただ、「戻っておいで」とあたしに直接言うのではなく、声をかけたのは妻のとみ子にでした。
円楽ととみ子は、もともと大の仲良しだったんです。円楽は自分の落語の感想をとみ子に聞いたりしていたし、とみ子もタメ口で遠慮のない感想を言うような仲でした。
だから、円楽はとみ子に電話をして、あたしの再登板の提案をしたわけです。

とみ子は円楽の話を聞いて、こう答えたそうです。
「ダメよ、師匠。あの人、強情だから。1度降ろされた番組に戻るなんて、嫌がるに決まってます」と。
「わかっちゃいるけど、そこをお前さんの力でなんとかしてくれよ」
そんなやりとりがあったそうですが、とみ子はそのことをあたしに伝えもしませんでした。

すると、しばらくして家の玄関のチャイムが鳴ったそうです。あたしはその日、いつものように酒を飲みに行っていて不在でした。
ドアを開けると、「とみちゃん、あたしだよ」と円楽その人が、そこに立っていたそうです。身長1メートル77の長身で大きな顔をした円楽が西日暮里のあたしのマンションを訪ねてきたのは、それが初めてのことでした。

酔って帰ってきたあたしは、「きょう、師匠が来たわよ」ととみ子から聞いて、青ざめましたよ。「師匠が熱心に言うのよ。あんたに戻ってきてほしいって。師匠の顔を立てないと」と話を聞いているうち、だんだんと事情が飲み込めてきました。

当時の円楽は、亡くなった三波伸介さんのあとを受けて大喜利の司会者になって4~5年目でしたが、メンバーのキャスティングまで任されていたわけではありません。それでもあたしに復帰の話を持ちかけてきたということは、おそらく、「好楽を戻さないと私も辞める」くらいのことを言って番組側を説得したに違いありません。師匠にそんな骨折りをさせて、その話を断るなんて申し訳ない。あわててあいさつに出掛けてお受けすることにしました。

そりゃあ、もちろん、1度クビになった身ですから、復帰初日は気まずいやら恥ずかしいやら、複雑なものがありましたよ。
でも、楽屋に入ると、衣装部のおばちゃんがきれいに畳んだピンクの着物を前にして「お帰りなさい」と言ってくれたんです。その言葉に感動して、すんなり元の調子で番組に戻ることができました。

こうして「落語界の玉三郎」から、「貧乏」「仕事がない」が売りになって、いまに至るというわけです。


あたしを𠮟ってくれる
「怖い人3人」がいなくなった

現在、好楽さん一門は総勢16人の大所帯になっています。お弟子さんたちには日ごろから、どんなアドバイスをしていますか?

好楽
よく話をするのが、「ウサギとカメなら、カメで行きなさい」ってこと。

長いこと落語界を見てきて、ウサギのように売れて失敗していった人をたくさん見てきました。
何人もの兄弟子を飛び越えて真打になって、すごい勢いで出世しても、実はその勢いがずっと続くということは滅多にありません。なぜかというと、勢いがあるうちはまわりからチヤホヤされますから、本人も自分で気づかないうちに天狗になって、芸を磨くことを忘れてしまうからです。

昔、落語協会会長の柳家小さん師匠が池袋演芸場の楽屋に入ってきたとき、「いま、高座にあがってるのは誰だい?」と聞かれたことがあります。
「○○の兄さんです」と答えると、しかめっ面で「あいつは相変わらずダメだな」と言って、その兄さんの欠点を指摘し始めたんです。

こいつは大変なことになったぞとあたしは思いました。その兄さんが楽屋に戻ってきたとき、師匠のお小言の嵐が吹き荒れるに違いない、と。
ところが、兄さんが戻ってきて、「師匠、お疲れさまです。お先でございました」とあいさつすると、師匠は「はいはい、ご苦労さま」とひとこと言っただけでそっぽを向いたんです。

怖いものを見たなと思いましたよ。きっと師匠は、その兄さんに何度も注意して、もう何を言っても無駄だと思ったんでしょうね。そういう人を、これまでたくさん目にしてきました。

ウサギのように売れて頂点まで登り詰めて、その座を維持できる人はほんの一握りの人。長く落語家を続けている人はその反対で、先輩や師匠にお小言をいわれながら、カメのような歩みで精進していく人たちです。

ちなみに、ウサギのように出世をして、そのまま成功した落語家の典型例のひとりが春風亭小朝でしょう。この間、彼からこんなことを言われました。
「いま、『笑点』でいちばんおもしろいのは好楽兄さんですよ。なぜって、怖い人3人がいなくなって怖いものなしでしょ」って。

怖い人3人と聞いて、ピンときました。
1人は最初の師匠、八代目林家正蔵。2人目は、五代目三遊亭円楽。3人目は、2020年に亡くなったカミさんのとみ子。
もしかすると、3人目のカミさんがいちばんの食わせ者だったかもしれない。ことあるたびに「あんたの言ってること、少しもおもしろくないわよ」と尻をひっぱたかれて、これまで頑張ってきたようなもんです。

小朝は、それがあたしをおもしろくしている理由だと言ってくれたけど、あたしにとってはそれがいちばん怖いことかもしれない。なぜって、自分が間違ったとき、𠮟ってくれる人がひとりもいなくなっちゃったんだから。

カミさんが先に亡くなって
「順番があべこべだよ」と…

おかみさんのとみ子さんが亡くなったことは好楽さんにとって、大きな出来事だったでしょうね?

好楽
大腸がんが見つかったのが亡くなる2年前のことで、2020年の4月13日にあの世に旅立ちました。

結婚したのが1971年です。当時、あたしは前座でしたが、師匠の正蔵が落語協会に掛け合って「うちの九蔵が結婚しますので、前座にしておくわけにはいかないから二ツ目にします」と言ってくれたんです。そのとき、あたしの上には8人の前座がいて、その兄さんたちもまとめて二ツ目になったので、「お前のおかげで紋付きや袴、羽織を着れるようになった」って、感謝されたもんです。

とみ子とはそれから49年間、連れ添ったことになります。あと1年、長生きしてくれていたら金婚式でしたから、「ふたりきりでどこかに旅行するか?」、「そうね」なんて言ってましたが、叶いませんでした。

順番からいえば、あべこべです。本来なら、あたしのほうが先に逝かなきゃならない。おかげで、ご飯の炊き方から醤油の置き場まで、イチから覚えなきゃならなくて大変です。まぁ、こんなことになるとは、夢にも思わなかったですねぇ。

3人の子どもたちから見た
「三遊亭好楽」の素顔

その一方、長男の一夫さんが落語家になり、2009年に三遊亭王楽として真打になったのは何よりのことですね。やはり父親の好楽さんと同様、王楽さんも「落語小僧」だったんですか?

好楽
それがねぇ、そんなこと全然ないんですよ。うちは上のふたりが女の子で、王楽は3人目の長男なんですけどね。
男女の違いでくっきり分かれたのは、あたしが『笑点』の大喜利メンバーだってことを友だちに隠すか、隠さないかってことです。
上のふたりの娘は、授業参観の日には「お父さんに来てほしい」と言うタイプ。
特に次女には「着物で来てほしい」とリクエストされて、学校で落語をやらされました。

ところが長男のほうは、自分の父親が三遊亭好楽だということを友だちにひた隠しにしていたそうです。
その気持ち、なんとなくわからないでもありません。日曜日に『笑点』を見たクラスメイトから月曜日に、「お前の親父、また『貧乏』ってイジられてたな」なんて言われるのは、思春期の男の子にとってはキツいでしょうからね。

ところが、そんなせがれが大学卒業を間近にしたころ、あたしの前に正座でかしこまって、「落語家になりたいです」と言ってきたんです。
あたしの答えは「ダメ」です。落語家は、いまの世の中の常識で考えても、半端な気持ちでなれるもんじゃありませんからね。

でも、「どうしてもなりたい」と言うから、本気を試すつもりで「デパ地下の和菓子売り場で1年間、みっちり働きなさい」と言いました。雑司ヶ谷で「ひなの郷」というたい焼き屋をやっている次女がそのころ、デパ地下に出店を出していたんです。お客さん相手に1円玉、5円玉をやりとりするような経験は役に立つだろうし、その間に落語家になる気が薄れていけばそれまでだと思ったわけです。

どんなリアクションが返ってくるかと思っていたら、「はい、わかりました」と言ってあっさりと引き下がったので肩すかしを食らった気になりました。

そして、約束の1年がやってきたときです。せがれが1年前と同じように正座であたしに向き合って「落語家になりたいです」と言ってきたので、こりゃ本気なんだなと認めざるを得なくなりました。

せがれが「三遊亭王楽」に
なるまでのすったもんだ

本来なら、王楽さんは父親の好楽さんに弟子入りするのが自然だと思うんですが、そうではなかったんですよね?

好楽
それについては、あたしのほうから「オレはお前を弟子にしないよ」と言って先手を打ったんです。そしたらせがれが、「はい、僕も最初からそのつもりでいました」と返してきたんで「この野郎」と思いましたよ(笑)。

「じゃあ、どの師匠のとこへ行くんだ?」と聞くと、「(五代目)円楽師匠のところへ」というから驚きました。つまり、せがれはあたしの2人目の師匠の弟子になりたい、ということを言っているわけで、もしそれが実現すれば、あたしとせがれは親子でありながら、兄弟弟子という関係にもなるわけです。
結局、「その人なら、オレもよく知っている人だから、紹介してやるけどな」ということになりました。

三遊亭王楽という名は、五代目円楽師匠から授かったそうですね?

好楽
実は、うちのせがれが弟子入りを希望しているということについて、円楽は当初、「お前のせがれなんだから、お前が仕込めよ」と本気にしませんでした。
でも、『笑点』の収録で会うたび、楽屋でその話をあたしがするもんだから、こちらの本気が通じて引き受けてくれたんです。

それからしばらくして、師匠が紙に書いたのを示して「こんな名前を考えたんだけどね」とあたしに見せてくれたことがありました。
するとそこには「光楽」という字が書いてありました。
「あたしの『楽』の字をとって、噺家が高座でパッと光る『光』という文字を入れたんだけどね」というけれども、読み方を聞いたら、あたしと同じ「こうらく」というので「即却下」です。

そんなこともあって、別の日にせがれとあたし、それからカミさんのとみ子と3人そろって師匠を訪ねて、料理屋で食事をしながら名前をいただくことになりました。
師匠は「この間はごめんね」と謝った上で、カミさんのとみ子に「とみちゃんが来るというんで、前の晩からずっと考えていたんだけどね」と、色紙に書いたのを見せてくれました。そこには「王楽」の2字が書いてありました。

円楽が売り出し中のとき、「星の王子さま」というニックネームで世に名を知らしめたことを知っている者としては、「王」の字を入れてもらったことは何よりもありがたいことです。夫婦で目を合わせて、「やった!」と思いました。

「ありがとうございます!」と色紙を受けとりましたけど、そのとき、師匠が「他にもこんなのも考えたんだけどね…」と、箸袋に「聖楽」と書いてあるのを見せてくれたんだけど、そのとき、とみ子が「そんなのいらないわよ!」と啖呵を切って、お互いに大笑い。

そんな風にしてあたしのせがれは五代目三遊亭円楽の最後の弟子、「三遊亭王楽」になりました。

王楽が前座のころ、顔を合わせるとあたしのことを「お父さん」と呼ぶわけにもいかないし、かといって「兄さん」と呼ぶのもおかしいと感じて戸惑ってる様子でしたけど、2009年に真打になったいまではこっちをまっすぐ向いて「師匠」と言います。
たまに酒を飲みながら、「師匠、この噺のこの言い回し、どうすれば言いやすくなりますか?」なんて相談に乗ったり、好きな演目について芸談を交わしたりするのは楽しいもんです。
あたしが落語家になるにあたって、おふくろは「泥棒になるよりいい」と言ったけど、王楽が落語家になってくれたことはあたしにとって、とてもうれしいことだったと思いますね。

人生最後のセリフは
「お先でございます」

春風亭小朝師匠いわく、「3人の怖い人がいなくなった」いま、好楽さんの目標というか、生きがいは何ですか?

好楽
そりゃ、何よりも好楽一門の弟子たちを一人前の落語家にすることと、ひとりでも多くの売れっ子を生み出すことですよ。

好楽一門は、弟子10人、孫弟子が4人、せがれの王楽とあたしを入れて総勢16人。
いちばん新しいのは2016年に弟子にした、スウェーデン出身の外国人です。10番目の弟子ということで、「三遊亭じゅうべえ」と名づけました。あたしが林家正蔵から「九蔵」の名をもらったとき、師匠が9番の弟子としてあたしをそう名づけたように。

正直なところ、身長180センチを超える31歳のスウェーデン人から「師匠の噺にはぬくもりを感じます。弟子にしてください」なんて言われたときは、ホントにわかってるのかよと首をひねりましたよ。そんな彼も、2020年に二ツ目に昇進して、いまは「三遊亭好青年」としていろんなところで活躍してくれています。

今年の夏で、好楽さんは76歳になります。最後に「年をとっても元気に生きる方法」について、アドバイスしていただけませんか?

好楽
このあたしが、人様にアドバイスできることなんて、ひとつもありませんよ。

まぁ、強いて言うなら、「無理をしない」ってことかな。
数年前、カミさんが大腸がんで亡くなったので、王楽たちが病院嫌いのあたしをけしかけて大腸検査を受けさせたんです。
結果、ポリープが12個、見つかりました。もちろん、内視鏡で取ってもらいましたけど、去年にもう1度検査をしたら、3個に減ってたそうです。
「次は3年後に検査をしますので、また病院に来てください」と言われたけど、健康のために、これといって気をつけていることなんてありません。

大好きな酒は、毎日欠かさず飲んでますしね。世間では休肝日をとったほうがいいなんて言いますが、「うちは新聞屋じゃないんで休みません」てなもんです。
あたしの場合、節酒とか、禁酒なんて言い出したら、それこそもうおしまいです。

とはいえ、75歳で世間から後期高齢者と言われる立場になって、この世の去り際のことをときどき考えるようになりました。
そのときのセリフはもう決めてるんです。集まってきた人を前にして「みなさん、お世話になりました。お先でございます」って。

「お先」というのは、目上の人に対して先に高座にあがるとき、先に帰るときのあいさつに使う楽屋言葉です。そんな風に、最後の最後まで落語家らしく生きることができたら、これ以上の幸せはないよね。

とても楽しいお話、ありがとうございます。


志ん朝、円楽、談志……
いまだから語りたい昭和の落語家 楽屋話
好楽が見た名人たちの素顔

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三遊亭円楽、古今亭志ん朝、立川談志、春風亭柳朝、柳家小さん…。
芸能生活55年、「昭和名人たちから最も可愛がられた落語家」と評された好楽が名人たちとの記憶を語る「落語界紳士録」。
黄金時代を生きた名人たちの知られざる一面がいま、よみがえる。

取材・文=内藤孝宏(ボブ内藤)
撮影=八木虎造

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