かっこよい人

異能の趣味人、石丸謙二郎に聞く!【前編】
1回だけの人生を5倍も10倍も楽しむコツ

石丸謙二郎さんの「本業」は俳優である。
長寿番組『世界の車窓から』(テレビ朝日系)では、36年に渡ってナレーターをつとめている、御年69歳(11月1日には70歳になる)の大ベテランである。

だが、別の一面では、多彩な趣味人としても知られている。
37歳から始めたウインドサーフィンはもちろん、40代後半以降に手掛けたフリークライミング、登山では、アマチュアの域を超えた能力を発揮、そのほかにもスキー、釣り、洞窟探検、ピアノ演奏、墨絵といった数多くの「趣味」を持ち、1回だけの人生を5倍も10倍も楽しんでいる「異能」の人である。

そこで今回は、65歳のときに始めたという墨絵の個展会場「おもしろかん按針」(横須賀市東逸見町)をお訪ねし、インタビューを試みた。

石丸さんにとって、「趣味」とはどういう営みなのか? どんなきっかけで「趣味」と出会ってきたのか、興味深い謎について、あれこれ聞いてみることにしよう。

記事は前編と後編に分けて公開します。

石丸謙二郎(いしまる・けんじろう)
1953年生まれ、大分県出身。1978年、つかこうへい事務所の公演で俳優デビュー。1987年からテレビ朝日系『世界の車窓から』のナレーションをつとめ、現在まで36年に及ぶ長寿番組に。2018年からはNHKラジオ『石丸謙二郎の山カフェ』のパーソナリティーをつとめるほか、テレビ、舞台、映画と幅広く活動している。
目次

僕にとって趣味は「生きる営み」のようなもの

多彩な趣味をお持ちの石丸さんですが、登山を始めたのは10代後半だったそうですね?

石丸
そうそう、18歳から始めて3年くらい。20歳でやめたきっかけは、それまでの自分がただ楽しいだけで山に登っていたのに気づいたからです。
大分から東京にやってきて、「何者かにならねばならない」と試行錯誤するなかで、このまま山に登り続けたとしても、植村直己さんのような登山家、冒険家になるような才能は自分にはない、だとしたら、「趣味」のような形で中途半端に山に登ってる暇なんてないだろうと見切りをつけたんです。

登山の道具は、そのときすべて処分しました。ついでに大学(日大藝術学部演劇学科)も中退して、それまで住んでいたアパートも引き払ってラブホテルの住み込みのバイトを始めました。そうやって退路を断って、何者かになる、つまり、役者になるための行動に専念しようと思ったんですね。

言うなれば、「趣味」を封印したわけです。

そんな石丸さんが、17年ぶりに趣味を始めるのが37歳のとき。ウインドサーフィンを選んだのは、どうしてですか?

石丸
たまたま海に出かけたとき、ウインドサーフィンをやってる人たちの様子を見ていて、ピンとくるものがあったんですね。

「ウインドサーフィンは趣味ですか?」と聞かれると、ほかに思いつく言葉がないので「そうです。趣味です」って答えてるんだけど、強いて言えば、犬にとっての「散歩」みたいなものなのかなぁと思うときがあります。

犬にとって「散歩」は、「趣味」ではないでしょ? 散歩していないと、犬はストレスが溜まって病気になったり、筋力が弱くなって虚弱体質になってしまう。健康に生きるために絶対に必要なもの。
僕にとっての「趣味」は、それと同じようなものなのかもしれなぁ、と……。

生きるために必要な営み、というようなものでしょうか?

石丸
生きるために必要な営み、そう、いい言葉ですね。「趣味」よりもそのほうが断然、しっくりきます。

だから、身体を動かせれば何でもいいかというと、そうじゃない。できれば、奧が深そうなもの、ひとりでもできるもの、それから1年中できるもの、が理想です。

海の上でウインドサーフィンをやっている人を観察したとき、この3つの条件をすべてクリアしているように思えました。おまけに僕は、子どものころから超がつく汗っかきでね。でも、ウインドサーフィンは海の上でやるものだから、どれだけ汗をかいてもわからない。「これだ!」と思いましたよ。

奥が深くて、ひとりでできて、1年中できる

で、実際にやってみて、どうでしたか?

石丸
僕はどんなスポーツでも、1日やればある程度のところまで体得できるという自信があるんだけど、ウインドサーフィンはそうじゃなかった。海の上を思うようにすべることができるまで、結構な時間がかかりました。そのとき、「奥が深そう」という予想が確信に変わったんです。

ウインドサーフィンは初心者のうち、風が強く吹いている日は海に出られないんです。でも、ある人から「レースに出場すれば強風でも海に出ることができて、上達も早いよ」と聞いて、レースに挑戦することにしました。

実際、レースに出てみると、たいていの大会ではレスキュー艇がついていて、思いきったプレーニングをしても助けてもらえるという安心感があった。結果的に、溺れそうになってレスキュー艇の世話になるようなことは一度もありませんでしたけどね。
調べてみると、レースは月に2回とか4回くらいのペースで全国いろんなところで開催されているんです。そうしたレースに片っ端からエントリーするうち、自然と技術が身についていきました。

ウインドサーフィンのレースは、どんなことを競うんですか?

石丸
競技には「ウェイブ」とか「フリースタイル」とか、パフォーマンスを競うものと、風上から風下方向へ指定されたマークブイを回航しながらスピードを競う「スラローム」というのがあるんだけど、僕がもっぱらやっているのは後者のほうです。

徒競走のように秒読みの合図でいっせいに走り出すんだけど、コースはまっすぐではないし、1回のレースで8人の選手と一緒に走るから、駆け引きが必要なんです。風の調子を読みながら、誰の後ろについたほうがいい、とか、何本目のマークブイで一気にスピードをあげたほうがいいと、タイミングを見計らったりね。

要するに観察力が必要な競技なんだけど、レースともなるとリキんで余計なところに無駄な力が入ってしまったり、視野が狭くなって思うようにコース取りができなくなったりします。でも、そういう駆け引きは僕の本業であるドラマの撮影に似ていて、共演者とかカメラマン、監督といったスタッフの立ち位置を計算しながら本番でベストな演技をするのに慣れていた僕は、コツをつかむのが早かったんです。

どこのレースでも、みんな若いうちから始めている選手が多かったから、30代後半で始めた僕が最年長なんてことは珍しくなかった。でも、そんな無名のオジサンがあちこちの大会で優勝するもんだから、結構注目を浴びていたようです。

1998年、44歳のときに出場した本栖湖チャンピオンシップという大きな大会で優勝して、翌年にはプロのレースである全日本プロサーキット沖縄大会でも13位になって、賞金をもらいました。もう、そうなるといつ海に出られるのかということを、本業の役者のスケジュールと同じ比重で考えるようになっていました。

午前はウインドサーフィン、午後はフリークライミング

ウインドサーフィンでは、ある意味でアマチュアの域を超えた石丸さんですが、それと並行して、47歳のときにフリークライミングを始めています。これにはどんなきっかけがあったんですか?

石丸
僕がよくウインドサーフィンをやりに行ってる海岸のすぐ近くの岩場に、フリークライミングのウォールがあったんです。

ウインドサーフィンには「風待ち」というのがあって、朝早く海に出ても思うような風が吹いていなくて午前中の5~6時間くらい、ずっと風が吹くのを待っている時間があったりするんです。

ある日、ボーッと浜で風待ちしているとき、あの岩場に登ってみるのもアリかなとひらめいた。登っている間にウインドサーフィン向きの風が吹いてくれば、すぐに海へと出ることもできる。これは一石二鳥だなと。

そんな感じで午前はフリークライミング、午後はウインドサーフィン、あるいはその反対のパターンの日もあったりして、1日をフルに活用できるようになったんです。

そんなふうにサラリとおっしゃいますが、1年後の2001年にはフリークライミングのオール神奈川選手権に出場、翌年には権威あるプラナカップにも出場されています。20歳のときに封印していた登山の道は、そのへんで「解禁」となるわけですか?

石丸
そうなんだよねぇ(笑)。フリークライミングの競技に参加するようになると、屋内の大会だけじゃなくて、自然の山にも登る機会が増えていくでしょ? そうすると、「今度はフリークライミングじゃなくて、山登りだけを純粋に楽しんでみたいなぁ」という気持ちが自然に起こってくる。で、実際に山に登ってみると、「もう、これはやめられないなぁ」って感じになってくるんです。

それが40代から50代の境目のころで、そこから毎年30~50の山を登る日々が始まるわけです。正確に数えちゃいないけど、今に至る20年間で、全国の山をのべ800以上は登っているんじゃないかな。

新田次郎の小説『劒岳 点の記』で有名な「長次郎谷(たん)」に登ったときの様子を描いた石丸さんの墨絵作品。

ジムは必要ない。一日遊んでるだけで充分な運動ができる

それほど石丸さんを惹きつける登山の魅力って、どんなものなんでしょう?

石丸
それを言葉で正確に表現するのは、すごくむずかしい。簡単に言えば、日常では味わえない体験を求めて僕は山に登っているんだと思います。

例えば、「夕焼け」。
太陽は毎日、東からのぼってきて西に沈む。
気をつけていれば、自分が住んでいる地域でもそれを眺める機会は何百回、何千回、何万回とあったはずなんだけど、山頂で見た夕焼けは、たったの1回でも一生の思い出になるんです。

地球が生まれてからの数十億年、ずっと繰り返してきた地球の営みを感じる瞬間というのかな。これは、山に登った人じゃないと味わえない。

登れば毎回、そのような感動が味わえるものなんですか?

石丸
いや、そうとは限りません。僕の場合、スイスのマッターホルンのような4000メートル級の高い山に登るための訓練として国内の山を登ることも多いから、全行程6時間の山を「速歩き、休みなし」という条件を自分に課して登ることも多いです。

そうやって、自分の身体と会話をするようなところが、登山にはあります。ゆで卵一個食べただけで6時間、ぶっ続けで山を登り下りしても、出発前と体重は変わらなかった、なんてときは絶好調のときです。

でも、「ハンガーノック」といって、ちゃんと食べていてもバランスの悪い食事だったときは低血糖になって後半、ガクンと力が落ちるときがある。あわててチョコレートなどの携帯食を口に入れるんだけど、意外に即効性はないんです。そんなときは、注意力が散漫になって滑落の危険度もあがっているから、「俳優の石丸謙二郎、無念の遭難」という新聞の見出しを頭で思い描きながら、慎重に下山の足を運ぶしかありません。

その強靱な体力を維持するために、何か特別な訓練をしているのですか?

石丸
いや、特にこれといった訓練をしたことはありません。登山をしたり、フリークライミングやウインドサーフィンをすること自体が訓練になっているのかな。

ジムでトレーニングをするにしても、せいぜい2時間くらいでしょ? でも、趣味なら楽しみながら1日中、取り組むことができる。

だから、48歳から『SASUKE』とか『スポーツマンNo.1決定戦』(ともにTBS系)といった番組に出場していたときも、そのために特別な訓練をするということはありませんでした。

避けられないケガと上手に付き合う方法

ただ、そうやって肉体を酷使していると、ケガをしたりすることになりませんか?

石丸
どんなに気をつけていても、ケガは避けられないですから、上手に付き合うことが大切です。

登山を再開して数年後、50代のときに下山中にヒザを痛めたことかあります。病院で診てもらうと、「ヒザの関節の軟骨がすり減っています。軟骨は再生できないから治りません」と医者に言われました。

それからというもの、1.5㎏の重りを足首に巻いて歩くことにしました。1.5㎏の靴を履くから、片足に3㎏ずつの負荷になります。プロ野球の選手がバットに重りをつけて素振りをしたりしているでしょ? あれを足でやったらどうなるかと自ら人体実験したわけです。

数カ月後、再び病院で診てもらったら、ヒザの軟骨が再生していたんです。医者も「あれ?」って、首をかしげてましたよ。

恐るべき、スパルタ療法だ……。

石丸
21歳のとき、ふと思い立って断食をしたことがあるんです。八丈島にこもりきりになって10日間、水分以外は何も口に入れないということに挑戦したわけです。

6日目のとき、ナイフでスパっと指を切ってしまった。でも、大して深い傷じゃなかったから、絆創膏を貼ったらすぐに血はとまりました。でもね、その傷口がパックリ開いたまま、いっこうにふさがらない。

ところが11日目に断食をやめ、食べ物を口に入れたら、いっきにそれがふさがったんです。通常の傷の治り方の10倍くらいの早さだった。

なるほどなぁ、と思いました。たかが指先の傷でも、皮膚を再生するにはタンパク質がいる。ところが断食中はそれが体内に入ってこないから、身体のなかの再生工場は操業中止の状態になっていたんですね。

そこへ急にタンパク質が入ってきて、工場長がピリリリリリって笛を吹いて大急ぎで工場をフル回転させた。
「エネルギー、注入! 仕事はじめぇ~」って。

(笑)。これはまた、すさまじい人体実験ですね。

石丸
この経験を通じて僕は、どんなに大変なケガをしても、「3日で治す」ということを目指すようになりました。

ど、どういうことですか?

石丸
50歳を過ぎたころから、肉離れは何度か経験しているんです。あるときは、医者から「全治3週間」と言われました。でも、数日後には仕事が入ってるんで穴を開けるわけにはいきません。
そこで、日ごろの粗食をやめて、とにかく食べたいものをガツガツ食べました。1日3食を5食に変えて。

肉離れだから、筋肉をつくる食べ物、手羽先とか魚介類、乳製品なんかをバクバク食べました。もちろん、バランスを考えて野菜もそれと同じくらい摂ってね。

すると、3日後にはなんとか松葉杖を使わずに歩けるようになっていたんです。

そんなことが。本当に起こるんですね。

石丸
50代から60代になるころには、ウインドサーフィン日本最速記録の時速75.6kmにどれだけ近づけるかというトライアルをしていました。

61歳のとき、台湾のポンポンビーチという強い風が吹くところで有名なところへ行って、時速73.71㎞という記録を出しました。当時、日本2位のタイムです。

ところがラスト1本で無茶をして、クラッシュ(転倒)してしまった。岸から2メートルの水深20㎝のところを時速70㎞以上の速度で振り落とされるわけだから、大変な衝撃です。
普通の人は怖くてやりたがらない、非常に危険なプレイなんだけど、欲が出て突っ込んでしまったんですね。

ウインドサーフィンは、両足先をストラップというサンダルの鼻緒のようなもので固定しているんだけど、右足がそこから抜けずに思いきりひねってしまった。
このときは、松葉杖でも歩けなくて、車椅子で飛行機に乗って日本に帰ってきました。

でも、やっぱり「3日で治す」と決めて、食べて食べて食べて……。そして、宣言通り、3日後には『ぶらり途中下車の旅』(日本テレビ系)のロケに出かけて、テニスに似た競技をプレイするまでに回復していました。

60歳になって、スキーを解禁

60歳になったとき、石丸さんはスキーを始めています。どのようなきっかけがあったのですか?

石丸
スキーというと、どんな上級者でも、ちょっとしたトラブルで骨を折ったり、大ケガをすることがありますよね。だから、俳優という仕事をしている以上、そういうスポーツはやるべきではないという空気が業界内にはあったんですね。
でも、60歳になって、動画とかを見てスキーの魅力に触れるうち、「もういいか」って思うようになって解禁することにしたんです。

だからといって、ケガを前提でゲレンデに行くわけにはいかないから、師匠について、しっかり技術を身につけて臨みました。

60歳からスキーを始めても、ちゃんと滑れるようになるんですね?

石丸
もちろんです。このときも役に立ったのは、「本業」と「趣味」で培ってきた観察力です。スキーというのは、一度滑り終わると、リフトに乗って、またスタート地点へと戻っていく時間があるでしょ? そこで、うまい人はどんなウェアを着ているのかとか、どうやって滑っているのかとか、つぶさに観察するうち、上達のコツをつかむんです。

62歳のときにはウインドサーフィンのときに学んだ、「レースに出れば上達が早くなる」というノウハウにならって、ポールレースにも積極的にエントリーしました。

日本で何度目かのスキーブームが起こった1990年代は、どこのスキー場でもリフト待ちで行列ができていたそうですね。でも、僕が60歳になった2013年以降はそれほど混んでもいなかったから、まさに滑り放題。

ある日、数えてみたら、朝いちばんのリフトの操業開始からその日の終業まで、80回もリフトに乗っていたことがありました。山に登っているときの身体の状態をスキーに当てはめると、1日中、メシも食わずにスキーに没頭することができるんです。まるで、リスが檻のなかで回転車を走りまわるようにね。

音楽は聴くのもいいけど、弾くのも最高だね

65歳のときには、ピアノ演奏に挑戦されていますね。これには、どんなきっかけがあったのですか?

石丸
ウインドサーフィン仲間にジャズピアニストの塚原小太郎さんがいて、ある日、「生涯で一曲だけでいいから、ピアノを弾いてみたいんだ」と、長年心に秘めていたことを打ちあけたら、あっさり「やってみようよ」と協力してくれることになってね。
生涯の一曲とは何かというと、ドビュッシーの「月の光」。

19歳の秋、北アルプスの穂高連峰に登ったんです。この山には「大キレット」という危険な個所が連続する縦走路があるんだけど、そこで台風に出会ってしまった。登るに困難、戻るに難しの大ピンチです。
ほうほうの体で北穂高岳山荘にたどりついたときは、主人にどやされました。「ばかやろう! こんな日に登ってきやがって」ってね。
そこには山小屋にあるとは思えないほどの立派なステレオがあって、ずぶ濡れになった衣服を脱いで、カレーライスをご馳走になって一息ついた僕は、真空管アンプから流れるドビュッシーの「月の光」を聞かせてもらったんです。
そのころには外の強風もおさまり、窓から月が見えました。3100メートルの高みでは、月の光はこうやって降ってくるんだなぁと、しみじみと感じられて、決して忘れられない生涯の思い出の一曲になりました。

ドビュッシーの「月の光」というと、上級者向けの難曲だといいます。すぐに弾けるようになりましたか?

石丸
最後の1音を弾けるようになるまで、7カ月かかりました。楽譜を読めないものだから、塚原さんが弾いてくれた指使いをそのまま真似て、何度も何度も繰り返し弾いて、身体に覚えさせました。

先日、福岡県のホールで開催される講演会に行ったんです。会場に行くと、数千万円もする立派なピアノが置いてあったんで、「弾いてもいいですか?」とお願いしました。
すると、快く承諾してくれて、蓋にかかったカギを開けてくれました。

聴衆がひとりもいないホールで「月の光」を弾いたときの気分は最高でしたよ。音楽は基本的に聴いて楽しむものだけど、弾くことによって、また別の感動を与えてくれるものなんだということを実感しました。

墨絵を描いている間は、好きなことに没入できるのがいい

今回のインタビューは、石丸さんの墨絵の個展会場「おもしろかん按針」で行っています。墨絵を始められたのは65歳のときだそうですが、どんなきっかけがあったんですか?

石丸
登山道具で有名なモンベルが発行している山岳雑誌『岳人』の編集長が、「野筆セットという新アイテムが出たんです。使ってみませんか?」と送ってくれたんです。

見ると、コンパクトなケースのなかに平たい硯(すずり)と墨と筆が入っている。墨は、ほんの4、5回こするだけでかなり濃いねずみ色になります。こすり方と水の加え方で、濃淡を調節できて、「おもしろそうだな」とピンとくるものがありました。

以来、朝起きたらすぐに墨を摺って、スケッチブックに目の前にある登山用ヘルメットやアイゼン、登山靴などを描く日々が始まりました。小さなスケッチブックでも、一枚を仕上げるには一気に5時間くらい、時が過ぎるのを忘れて没頭します。

ひと通り、道具を描いたら今度は山小屋の絵、という具合に描いていったら、2カ月で3冊のスケッチブックがいっぱいになりました。

そこで、『岳人』の編集長に報告がてら、そのスケッチブックを見てもらうことにしたんです。すべての絵を見たときの編集長のキョトンとした顔を思い出すと、今でも恥ずかしくなります。

「ところで、文は?」と質問されたんです。
そう、野筆セットは、芭蕉や山頭火といった俳人が、野外で俳句などをしたためるために墨と硯をたずさえ、筆をはしらせた道具なんですね。

これは、とんだ勘違い。顔が火のついたように真っ赤になるのがわかりました。
でも、編集長は僕の勘違いをおもしろがってくれて、墨絵つきのエッセイの連載を依頼してくれました。

勘違いが、墨絵という新しい趣味を石丸さんにもたらしたんですね?

石丸
その通り。誰から教わったわけでもなく、自己流で筆を走らせるおもしろさに、すっかりハマりました。

最初のひと筆は、絵の中でいちばん色の薄い部分から描き始めるんです。だから、何を描いているかは、この段階では自分以外にはわかりません。だんだん墨を濃くしていって、20段階くらいの工程を経て、ようやく絵の全貌が見えてくる。

ありがたいのは、先生に習っているわけじゃないから、どんなに自由に描いても誰にも怒られないこと。その奥深さを自分が好きなように掘り下げていけるんです。

「奥深さ」は石丸さんの趣味選びのなかで、大事な要素でしたね。絵を描く楽しさって、どんなものなんですか?

石丸
1枚の絵を仕上げるのに、最低でも5時間はかかります。だから、絵の題材は自分が好きなものを選ばないと集中して描けません。

例えば、蕎麦の絵を描くとする。蕎麦は大好きだから、食べるときは一瞬で目の前のザルが空っぽになるような気がして寂しい気分になるものだけど、絵に描くときは5時間、ずっと蕎麦の味わいを頭に浮かべながら、そのときの気分を持続させることができるんです。

温泉の絵も、それと同じ。湯に浸かれる時間には限りがあるけど、その絵を描いている間は、ずっとポカポカした気分でいられるんです。こんなに幸せなことはない。

人生のモットーはNever To Late、始めるに遅いことはない

60代前半は、スポーツを軸に趣味の幅を広げてきた石丸さんですが、60代後半はピアノと墨絵、そして52歳から毎日欠かさず更新してきたブログの出版と、インドア系の趣味も広がっています。ずいぶんと忙しい日々なのではないですか?

石丸
そうですね。コロナ禍のときは外出の機会が減っても、一日として退屈する日がなかったのは趣味のおかげです。

朝おきて、墨を摺って絵を描きながら、その間に頭に浮かんだアイデアを文章にしてブログにアップ。絵に飽きたら、身体の向きをかえてピアノに向かう。そのローテーションを何度か繰り返すうち、あっという間に深夜になっていたりする。そんな日々でした。

これからも、新しい趣味が増えるということは、あるのでしょうか?

石丸
いや、自分ではわからないですね。僕は2023年の11月1日で70歳になりますけど、この歳になると、趣味は「向こうからやってくる」ようなもののように感じます。向こうからやってきて、ピンとくるものを感じられれば、きっとそれに挑戦しているでしょう。

「犬は棒に当たる」ということわざには、犬が一匹でふらふらと歩いていると、棒で打たれるような災難に遭うという教えがあるそうです。確かに僕は、犬のようにふらふらと自由に行動してきて、たくさん棒に打たれてきましたけど、そのために得られたことも多かったように思います。

僕はいつも、20年後の自分が今の自分を見ていることを想像するんです。20年後の自分というと、90歳。そのころの自分から見れば、今の自分にはいろんな可能性があると思う。

僕が大好きな言葉は「Never To Late(始めるに遅いことはない)」。その言葉の通り、これからもいろいろな可能性に挑戦していきたいですね。

興味深いお話、ありがとうございます。後編のインタビューでは、つかこうへい事務所に入団して俳優になった話、45年にわたる俳優人生の変遷などについて、大いに語っていただきたいと思います。

後編記事はこちら→ 俳優、石丸謙二郎に聞く!【後編】いつも20年後の自分に胸を張れる自分でいたい

 

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みなけりゃ分からない(みなわか)」シリーズ
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『犬は棒にあたってみなけりゃ分からない』

電話に出た相手になぜ「いま大丈夫ですか?」というのか? 年配者はなぜ夜中に目が覚めるのか? など、日常生活の疑問の重箱を突つきながら語り尽くす、イシマル視点の痛快エッセイ。

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  • 定価:1,650円(税込)

取材・文=内藤孝宏(ボブ内藤)
撮影=八木虎造

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