毒蝮三太夫90歳が語る「人生なすがまま」、出会いと転機の処世術【後編】

マムシさん、マムちゃんの愛称でおなじみ毒蝮三太夫さんが、「ユニークな名前を持つ仲間」ともいえるお笑い芸人の玉袋筋太郎さんとの対談を収めた最新刊『愛し、愛され。』(KADOKAWA)が現在、好評発売中だ。
前編では、そんなマムシさんが半世紀以上にわたって進行役を務めるTBSラジオ『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』の中継現場に密着取材を敢行したが、後編では芸能界入りしたきっかけから、ウルトラマン・シリーズへの出演、盟友・立川談志さんとの出会いなど、さまざまな話を聞いていこう。
元気いっぱいの90歳、マムシさんが今の世の人たちに贈る、熱いメッセージを聴け!
前編記事はこちら→コンプライアンス番外地・毒蝮三太夫が語る「ジジイ、ババア」ではじまる会話術【前編】

- 毒蝮三太夫(どくまむし・さんだゆう)
1936年、東京生まれ。本名、石井伊吉。日本大学芸術学部映画学科卒業。12歳で俳優デビューし、『ウルトラマン』などの多くの作品に出演。1968年、『笑点』出演中に立川談志の助言で芸名を毒蝮三太夫に改名する。1969年からパーソナリティを務めるTBSラジオ『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』は、半世紀以上にわたって続くコンプライアンス番外地長寿コーナーとして知られる。司会や講演、執筆など幅広く活躍中。最新刊は玉袋筋太郎との共著『愛し、愛され。』(KADOKAWA)。
芸能界入りのきっかけは、
マッカーサーのスカウトだった!?
ガラッパチで口は悪いけれども、人情に篤く、洒落っ気がある。そんなマムシさんの人柄は、やはり「下町で育った」ということが大きいのでしょうか?
毒蝮
そうだね。浅草の近くの下谷竜泉(現・台東区竜泉)に住んでたのは9歳から14歳までの5年ばかりなんだけど、オレという人間の人格形成に大きな影響を及ぼしたのは間違いないね。
銭湯へ行けば、もろ肌脱いだ粋なおにいさんが番台でサッと金を払って無駄な動作ひとつせずに着ているものを駕籠に入れて洗い場の戸をくぐる。その背中がカッコよくてねぇ。
年寄りも年寄りで、騒いでいる子どもがいると、静かだけどドスの効いた声で「シズカニシネエカイ」って諭すんだ。自分も大人になったらあんな風になりたいと思ったもんだ。
吉原の遊郭がすぐ隣にあって、そこで働いてる家の子の友だちもたくさんいたから、大人の世界に触れる機会が多い環境だった。
もし、あの5年間がなかったら、オレは芸能界に入ったりしなかったし、今とはぜんぜん違う人間になっていたはずだよ。
マムシさんのプロフィールには「12歳で俳優デビュー」とありますが、どんなきっかけがあったんですか?
毒蝮
中学校にあがったばかりのころだった。マッカーサー元帥ひきいるGHQ(進駐軍)の命令で、菊田一夫先生が書いた『鐘の鳴る丘』っていう名作ラジオドラマを舞台化して、全国を巡業する公演が企画されて、その「出演者募集」のオーディションに参加したんだ。
演劇とか、そういうものに興味があったわけじゃない。体がデカくてスポーツ万能の友だちがいて、そいつに付いていっただけのこと。ところが、募集していたのが戦災孤児の役だったせいか、体が小さくてセリフ読みがうまかったオレのほうが受かっちゃったんだ。
いざ巡業に加わってみると、四国や山陰、愛知、岐阜といった西日本を移動しながら芝居をする日々が始まった。めったにできない経験でおもしろかったし、GHQの主催だからギャラも大人の俳優とそんなに変わらない額がもらえて、やり甲斐もあった。
それで、人前に出ることさえ苦手だったオレが、演技をする楽しさに目覚めたんだね。言ってみればオレは、マッカーサーにスカウトされて芸能界入りしたわけだ。
無名俳優から『ウルトラマン』へ。
毒蝮三太夫が語るブレイク前夜
その後、日芸(日本大学芸術学部映画学科)在学中の劇団活動などを通じてプロの俳優になったマムシさんですが、全国に名が知られる存在になるのはやはり、28歳のときに『ウルトラマン』のアラシ隊員役に起用されてからでしょうね?
毒蝮
当時のオレが俳優としては無名に近い存在だったことは確かだよ。テレビ放送が始まって間もないころで、事件ものが流行ればチンピラ役、青春ものが流行ればスポーツ部の主将役と、セリフも数えるほどしかない脇役をずいぶんやった。
TBSの局内にあった待合室でコーヒー一杯で粘っているとさ、ADが血相を変えて飛び込んできて「誰かこの役をやれる人はいませんか?」って声をかけてくるんだ。当時、収録用のテープは高かったから、テレビドラマといってもほとんどがぶっつけ本番の生放送だった。
『ウルトラマン』に起用してくれた監督は、そんな当時のオレのことをよく知ってたADのひとり、満田かずほさんという人。数年前、オレのYouTubeのマムちゃんねるに出てくれたとき、彼がこう言ってたよ。「あんたが長いセリフをしゃべったらどうなるのかを見てみたかった」ってね。
そんなこともあって満田さんは、脚本家に頼んで「アラシ隊員にスポットを当てた回を書いてください」って頼んでたそうだよ。ありがたいねぇ。
でも、マムシさんはその期待に応えたからこそ、次回作の『ウルトラセブン』でも、フルハシ隊員として続投することになるわけですよね?
毒蝮
『ウルトラマン』は放送開始からすぐ、視聴率が40%前後の人気番組になったものの、当時の俳優仲間のあいだでは「ジャリ番(子ども向け番組)」と呼ばれて自慢できるような番組じゃなかったんだ。
科学特捜隊のオレンジ色の体にぴったり貼りついたようなユニフォームを着るのも恥ずかしくてね。街中のロケ撮影の昼休憩で蕎麦屋に入るとき、私服に着替えたり、コートを羽織って隠したりしたもんだよ。
だけど、『ウルトラマン』でムラマツ隊長を演じた小林昭二さんは、もともと舞台出身のちゃんとした俳優なのに「子ども番組だからといって手を抜くな。大人に見せても恥ずかしくない演技をしろ」と激を飛ばしていた。そんなこともあって、みんな真剣だったよ。
むしろ子役出身のオレは、演技の勉強をキチンとやってきた新劇出身の俳優たちとは違って、自由で楽しんだ気持ちで番組に入ることができたんじゃないかな。
例えば、カメラの後ろの竹ざおにひっかけた帽子に向かって、「身長40メートルの怪獣を見上げたつもりで驚いてください」なんて言われたら、誰だって戸惑うよ。大河(たいが)ドラマに出演するような立派な俳優だったら、「大概(たいがい)にしてください」って、尻込みしただろうね(笑)。
立川談志との出会いが変えた運命。
「毒蝮三太夫」の改名秘話
マムシさんにとって、立川談志さんとの出会いも大きな出来事だったと思うんですが、いつごろからのことですか?
毒蝮
日大の映画学科の仲間と「山王」って劇団をつくって活動していたころ。仲間のひとりに落語好きなやつがいて、当時、まだ二ツ目だったころの談志を紹介してくれたんだ。
ふたりとも同じ年で、二十歳を過ぎたばかりだったけど、談志は寄席だけじゃなくて日劇ミュージックホールとかの演劇場に出演してコントや漫談なんかも器用にこなす超人気者だった。
談志さんは、かなりのアイデアマンでもあったようですね。テレビが普及して、寄席に閑古鳥が鳴いているのに危機感を抱いて『笑点』(日本テレビ)を立ち上げたのは、談志さんでした。
毒蝮
ついこの間、番組が始まって間もないころの『笑点』の古い映像をたまたま見たんだ。桂歌丸さん、三遊亭小円遊さん、林家こん平さんたちと並んで二代目座布団運びをしていたオレが画面に出てきて、本名の「石井伊吉(いよし)」でテロップされていた。
そのころはもう『ウルトラマン』に出演していて、少しは世間に顔が知られた存在だったから、なんで俳優が落語家たちに混じって座布団運びをしてるんだって違和感をもった視聴者は多かっただろうね。オレ自身、中途半端な気持ちで番組に出ていたと思う。
談志がオレに「石井伊吉なんて名前じゃ売れねぇ。でも、ひとりしゃべりはおもしれぇから毒蝮三太夫に改名しろ」と提案してきたのは、そんな状況を見かねてのことだったんじゃないかな。
でも、あまりにぶっ飛んだアイデアなんで正直、ピンとこなかったよ。周囲に相談しても、「そんな芸名にしたら仕事がこなくなるよ」って言う人がほとんどだった。
でも、談志本人は「もし毒蝮に改名して売れなかったら、オレが毎月15万円保証してやる」って言うもんだから引き受けるしかなかった。大卒のサラリーマンの初任給が3万前後だったころの15万円だから、かなりの自信だよ。
『笑点』を辞めたあとも、
オレが名前を元に戻さなかった理由
昭和43(1968)年12月には、『笑点』の放送内で改名披露も行われ、「毒蝮三太夫」が正式に世に誕生しました。
毒蝮
この名前が自分のなかでも馴染むには、かなりの時間がかかったよ。身内のお袋やカミさんにも、最後まで伝えてなかったからね。
だから、談志が国会議員に立候補するというので『笑点』を辞めて、オレも一緒に辞めたのを機に元の「石井伊吉」に戻してもよかったはずなんだ。
そうしなかったのは、なぜか?
あるプロデューサーに「日テレの『笑点』でつけた名前のままでいたら、他局で使ってもらえなくなるよ」という忠告に反発したからかもしれない。それと、翌年の昭和44(1969)年、TBSラジオで『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』という冠つきの番組が始まったことが大きかったね。
中継先で「ジジイ、ババア」を連発する、マムシさんのキャラを確立した番組ですね?
毒蝮
だから、番組がオレを「毒蝮三太夫」に育ててくれたんだ。
もし、『石井伊吉のミュージックプレゼント』で始まっていたら、50年以上も続く番組にはなっていなかっただろうね。
すべては「生涯現役」を貫くために。
マムシ流・変えない生活習慣
前編のインタビューでは、『ミュージックプレゼント』は人に求められる限り続けて「生涯現役」を貫くと発言されていましたが、そのために何か努力していることはありますか?
毒蝮
特別なことは何もしてないよ。深夜の3時とか4時くらいに寝て、起きるのは午後からだから、食事は1日2食。この生活は、年をとってもずっと変えてない。
もちろん、オレ自身が「くたばり損ないのジジイ」になってることは十分、自覚してるよ。だから家のなかでは毎日、簡単にできる腕と腹筋の運動をしてるし、週に2~3日はジムで転倒防止のための水中ウォーキングをやってる。おかげで最近、体重が5キロも落ちたよ。
車の運転も、変えない習慣のひとつだね。まわりは「危ないから返納しろ」って言ってくるけどお構いなし。75歳を過ぎてからは3年に1回、認知機能検査を受けてクリアしてるんだからさ。
高齢者が事故を起こすと、ニュースで大きく取り上げられるよね。あれ、よくないと思うんだ。80歳を過ぎてもまったく支障なしに運転できる年寄りは全国に何人もいるはずだし、反対に若いうちに事故を起こすやつだっている。要は年齢の問題じゃなくて、人それぞれの資質の問題なんだよ。
別に、何10キロも離れたところに遠出するわけじゃない。安全運転で、通い慣れたいつもの道を通って買い物したり、メシを食いにいくだけ。好きなときに好きなところに移動できるってことは、単なる能力じゃなくて、人間の「自由」に関わる権利のようなものなんだ。
「大事なのは人柄」。
マムシ流・愛される老人になる秘訣
2025年、団塊の世代(1947~49年生まれ)の人たちが75歳以上の後期高齢者となり、国民の5人に1人の割合になりました。そんな超高齢社会を生きるコツについて、何かアドバイスはありますか?
毒蝮
オレはかつて、年をとると人は頑固になるし、それでいいって思ってた。だけど、2017年に105歳で亡くなった聖路加国際病院の名誉院長の日野原重明先生に出会って、その考えが180度変わったんだ。
いつもニコニコして、イヤなことはひとつも言わない。そんな日野原先生と接して、年寄りというのは、いつも素直で人に愛される存在でいなければならないってことに気づいたんだ。体の不自由が増えて、人の世話に頼るようになっても、その人たちが喜んで世話をしてくれるような「チャーミングな老人」だな。
この年になって振り返ってみると、オレはいつも「なすがまま」に生きてきたような気がする。芸能の道に進んだのは、自分から望んだわけじゃない。立川談志と出会って「毒蝮三太夫」になったのもそう、『ウルトラマン』に出演したのも、ラジオのブームに乗って『ミュージックプレゼント』に出たのもそう、自分から「ああしたい、こうしたい」と動いたことが一度もないんだ。
それでも、どうにかこうにかやってこれたのは、オレが人にかわいがられる人柄だったということになる(笑)。結局のところ、大事なのは人柄(ひとがら)だよ。誰だって最後はみんな、亡骸(なきがら)になるんだからさ(笑)。
とても楽しい、ためになるお話、ありがとうございます!
卒寿・還暦目前のふたりが語り尽くした人生論
『愛し、愛され。』
KADOKAWAより好評発売中!


- 毒蝮三太夫&玉袋筋太郎・著
- 出版社:KADOKAWA
- 発売日:2026/1/29
- 価格:1,980円(税込)
技術の進歩で暮らしは豊かになった一方、コンプライアンス至上主義の波は社会の隅々までに及び、いつしかコミュニケーション不全を生み出した。
そんな生きづらさを感じる現代に、戦前生まれで卒寿を目前にした「生けるレジェンド」毒蝮三太夫と、還暦を目前にした「時代遅れな昭和の粋芸人」玉袋筋太郎が、世代を超えて最強のタッグを組んだ。
ふたりはこの共著を通じ、これまでのキャリアで体験した心温まるエピソードをふんだんに紹介しつつ、社会に転がる問題を軽妙な掛け合いのなかで丁寧に紐解いていく。
毒蝮の「毒」と、玉袋の「粋」が融合した本書は、人生を見つめ直す深いきっかけとなるだろう。同時に、表面的な慰めではない芯を食った言葉で、どうしたら人間関係を豊かにし、日々の生活を実りあるものに変えていけるのかという示唆を与えてくれる。
「愛すれば、愛される」――。変化が激しい新時代を生きるわたしたちにとって、大切にすべきものを思い出させてくれる一冊だ!
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