TIM・ゴルゴ松本が出会った“学び”の道 激動の芸能界を経て見出した新しい人生の楽しみ方

「命」「炎」の“人文字”ギャグで一世を風靡したお笑いコンビ·TIM。今回はゴルゴ松本さん、レッド吉田さんの両名にインタビューを実施。
上京した先の部屋がとなり同士だったという、運命の出会いを果たした二人。今回はそれぞれの視点から人生を振り返ってもらいました。
本記事では、ゴルゴ松本さんの人生を振り返ります。野球に打ち込んだ学生時代から、ブレイクを果たすまでの道のり、そして、学ぶことの楽しさに気づいた人生の次なるステージへの想いについてお伺いしました。

- ゴルゴ松本
1967年生まれ。
埼玉県花園町(現·深谷市)出身のお笑い芸人。
1992年にレッド吉田とお笑いコンビ「TIM」を結成。
コントや「命」を始めとした人文字ギャグで人気を博す。お笑いのみならず、少年院でのボランティア講演活動など、幅広い分野で活躍している。
甲子園に憧れて
ゴルゴさんは、甲子園経験者だとお伺いしました。
ゴルゴ松本(以下、ゴルゴ)
甲子園は「年上の青春」のように感じていました。全力でプレーして、泣きながら土を集めている選手の姿をテレビで見て、ずっと憧れていたんです。そんな思いもあって中学から野球を始め、高校も野球部が強いところを選んだんです。
強豪校の部活はどうですか?
ゴルゴ
グラウンドで歩いてはいけなかったり、先輩の前で水を飲んではいけなかったり……。まあそういう時代だったというのもあって、厳しかったですよ。とくに最初の3か月は体力がないから、相当キツかったです。部員も最初は70人くらいいたんですけど、半分以上は辞めたと思います。
どうしてそこまで厳しい部活を続けられたのでしょうか。
ゴルゴ
やっぱり甲子園に行きたいっていう目標があったのと、あとは根性ですね(笑)。シンプルですけど。部員のなかには楽をしたり、気を抜いたりする人もいました。でも入部を決めたのは自分ですし、自分の人生ですからね。やっぱり先輩の体の大きさを見ると、これまでの経験の積み重ねを感じるんです。だから練習は全力でやって、「絶対に手を抜かない」と決めていました。
それだけ打ち込んでいた野球を引退したあとは、どのように過ごしていたのですか?
ゴルゴ
高校3年生の春に甲子園出場を果たして、もちろん夏も目指していたのですが、大逆転されて負けてしまったんです。泣いてる仲間を見て放心状態になりました。「俺の青春は終わったな」って。でもすごくやり切った感覚もあったんです。それから不思議と野球には興味が湧かなくなりました。プロ野球も、それから10年くらいは見ていなかったですね。
まさに“燃え尽きた”状態だったんですね。
ゴルゴ
そうですね。でも、もともと僕は人を笑わせたり楽しませたりするのが好きだったから、次は「とんねるずみたいになりたい」と思うようになりました。人を笑わせて有名になれるんだったら、そんな楽しいことはない。“野球”から“芸能界”へ、自然に夢がシフトしていったんです。
大都会東京で生きる意味
ゴルゴ
高校を卒業してからは、芸能界を目指すにあたって劇団に入り舞台をしていました。それから21歳のときに上京したんです。東京に来てからも舞台は続けていました。でもチケットのノルマを捌くために友達に声をかけたり、アルバイト先の人にお願いしたりするのが、なんか自分に合わなくて。あと、お金を払って有名人を目指すことにずっと違和感を感じていて、結局劇団は辞めてしまったんです。
そんなときに、レッドさんに出会うんですね。当時、僕は木造の家賃3万円のアパートに住んでいました。その家のあたりは僕と同じように夢を追いかけて上京してきた人がたくさん住んでいて。それでとなりの部屋に、同じように上京してきたレッドさんが住んでいたんです。
運命的な出会いですね。
ゴルゴ
そうでしょ。それからレッドさんと仲良くなって、引っ越しても近くに住んだりして常に一緒にいました。レッドさんは京都にいたんですけど、結婚しようと思っていた彼女にフラれて、東京に来たらしいんですよ(笑)。それで僕と出会って。
それはまた不思議な縁ですね(笑)。
ゴルゴ
当時は小劇団ブームだったんです。よく下北沢なんかでみんな集まって、いろいろやっていました。でもなかなか芽が出ずに、僕は気がついたら20代半ばになっていて。僕が25歳、レッドさんは2つ年上だから27歳。もう30歳間近ですよ。少し焦り始めていたころに、レッドさんが「お笑いっていうのがあるんだよ」って、僕に言ったんです。
ゴルゴ
『デ☆ビュー』というオーディション情報誌があったのですが、そこにいろんな事務所の連絡先があいうえお順に載っていて、なんでか「逆からかけてみよう」っていうので連絡したのが、ワタナベエンターテインメント(当時は渡辺プロダクション)だったんです。電話をしたら、「土曜日にネタ見せをやっているんで来てください」って言われて、二人で行きました。
まだお二人は芸人としての活動はしていなかったはずですが、ネタはどうやって作ったんですか?
ゴルゴ
舞台で芝居の経験はあったので、15分くらいのネタは作れたんです。それがけっこうウケて、尺を調整してもう一度披露したら、また大爆笑で。そのまま偶然枠が空いたから、トップバッターでお客さんの前でやらせてもらえるようになったんです。僕はもうこれをきっかけに「絶対売れてやろう」「一気にとんねるずみたいになろう!」と意気込んでいたんですけど、それからが全然ダメで。しばらくライブに出られない日々が続きました。
ライブに出られないと、何をしたらいいのかわからなくなっちゃうんですよね。結局、2年間でライブに出演できたのは4、5回。あとはもうずっとアルバイトに時間を費やしていました。
ゴルゴ
僕はお弁当屋さんでアルバイトをして、レッドさんは運送業で。お弁当屋さんには夜から朝まで入っていたんです。お客さんがいない時間は、お店の排水の清掃作業なんかをしていました。僕は根が真面目だから、みんながライブの打ち上げをしているなか、「バイトだから帰るわ」って抜けるわけ。そんな毎日が続いてて、なんかもうやりきれなくなっちゃって。
ある日、「俺アルバイトするために上京してきたんじゃないよな」ってふと思ったんです。そんな思いが積もり積もって、アルバイトは辞めました。それから少し借金をしながら生活をしていたんですけど、代わりにネタを作る時間が一気に増えて。いままでアルバイトに注いできた体力をすべてお笑いに注いだら、ちょっとずつ動き出したんです。
初めて手応えを感じたネタは、どんなものだったのですか?
ゴルゴ
ある日、横山やすしさんが他界されて、テレビで追悼番組がたくさん放送されていた時期があったんです。僕もやすしさんが大好きだったので番組を見ていたのですが、かなり昔のネタのはずなのに、当時見ても面白かったんですよ。そこで、僕たちTIMの面白さは「台本じゃないのかも」と思い始めて。横山さんのお笑いは、僕にとって“リズム”がとても心地よかったんですよね。しかもやすしさんのお笑いは、漫才からコントに“動く”ステージなんですよ。それがまさに僕の求めていた面白さだったんです。
そこから横山さんのネタを全部文字起こしして、テンポ感を勉強しました。それで僕も自分が心地いいと感じるテンポでネタを披露したら、ウケたんです。多分レッドさんも関西出身で子どものころからやすしさんの漫才を見てきたから、心地いいリズム感だったのかもしれません。そこでやっとTIMがかたちになってきたんです。
一気に歯車が動き出した感じですね。
ゴルゴ
僕の場合、「自分の目的」を整理すると、次のステージに行けることが多いんです。高校生のときはずっと続けてきた野球ではなく芸能人を目指したように、お笑いも、アルバイトが日々の目的になりかけていたところから軌道修正して。そこからうまく回り出したので。
あと20代を振り返ると、要所要所で自分を頑張らせてくれる存在が必ずありました。ずっと憧れていたタカさん(とんねるず·石橋貴明)とは、実はお笑いを始めたばかりのころに偶然お会いする機会があって。「この世界、一発逆転あるから頑張ってね」って言ってくれたんです。そういう憧れの人からの言葉とか、お金がないときにご飯を食べさせてくれた人とか、アルバイトで雇ってくれた人とか……。ずっと不安な状態だから、そのときはそれが助けだということすら気づけないかもしれないけど、必死に頑張っていたらそういう助けは必ずある。いい意味で“勘違い”をしながら、20代は突っ走る必要があるのかもしれないですね。
遠回りで近道なブレイク
TIMがブレイクしたきっかけは、なんだったのでしょうか。
ゴルゴ
『タモリ倶楽部』(テレビ朝日)というバラエティ番組で、軽トラに乗って多摩川沿いを走るタモリさんを追いかけながら笑わせるという企画があって。
すごい企画ですね(笑)。
ゴルゴ
そうなんです。離れていく軽トラを走って追いかけて、「命」とか1発ギャグをやったら、それが遠くから見てて面白かったみたいで。番組のディレクターさんが、『ボキャブラ天国』(フジテレビ)に出ないかと誘ってくれたんです。
結果、『ボキャブラ天国』は8、9位あたりだったと思うんですけど、それをきっかけに徐々に営業に呼ばれるようになりました。年末は浅草の寄席に出させてもらったんですけど、それをタカさんとノリさん(とんねるず·木梨憲武)が見てくれていたみたいで、「1番面白かったよ」「笑った」って言ってくれたんです。
お笑いの道を歩み始めたとき以来の再会ですね。
ゴルゴ
めちゃくちゃ嬉しかったですし、それがまた次の自信につながりました。諦めずに作り続けていたら、いつの日かそれが笑いとして返ってきて、それがまた僕たちのエネルギーになる。芸能人の人たちは、みんなそういうサイクルを持っているんじゃないかな。
下積み時代からブレイクを振り返って、どう感じますか?
ゴルゴ
売れるまでは舞台役者をしたりアルバイトをしたり、すごく遠回りしてきたように感じますが、お笑いの道としては、意外と近道だったのかもしれないです。
人生って不思議と、不安になりながらも前に進んでいくと、好転することがあるんです。とくにこの世界は。そのときが来るまで試行錯誤をして、悩んで考えながらやり続けてきた人には、神様がチャンスを与えてくれるんです。だから、それまでの下積み期間は「お前まだだよ」「まだ世に出せないよ」っていうことなのかもしれないですね。覚悟を決める猶予だったのかもしれない。
言葉で想いを伝える幸せ
松本さんは現在、少年院などで『命の授業』を行っているとお伺いしました。新たなことに挑戦しようと思ったのはなぜでしょうか?
ゴルゴ
テレビ東京で、歴史の番組のオファーが来たんです。別に僕は歴史に詳しいわけではなかったので、その出演をきっかけに勉強をするようになって。そしたら、次第に「日本人ってなんだろう」「自分のルーツはなんだろう」って気になることがどんどんでてきて。まだ自分の知らないことがこんなにもあるのかと思うと同時に、芸能界で夢は叶えたけど、まだ通過点でしかないのかも。と感じたんです。
あと、年齢もありますよね。芸能界で夢もひと通り叶えた38歳のときに、ふと「50」という数字が見えてきて。12年後に50歳になると思った瞬間恐ろしくなったんです。このままいったらろくな50代にならないと思って、そこから猛勉強を始めました。
どんなジャンルを勉強したのでしょうか?
ゴルゴ
まずは歴史ですよね。「大化の改新」とか「本能寺の変」とか、そういう歴史の転換期から勉強していきました。そしたら調べるのがもう楽しくてしょうがなくて。それで、勉強していくうちに、「あ、学校では歴史を教える時間がなさすぎるんだな」って思うようになったんです。歴史の授業で教えてもらうところはほんの一部で、あとは好きなところを自分で学んでいくんだなって。
歴史を勉強したことによって、どんなことを感じましたか?
ゴルゴ
これまで教えてもらっていた歴史って、戦いに勝った“勝者”が作った歴史なんだということです。でも、描かれていないだけで負けた人たちも同じ数以上絶対にいる。その人たちの歴史……いわゆる“裏歴史”を学ぶと、全体的な時代の流れが見えてくるんですよ。それに、昔を生きていた人は必ずしも著名な人だけではないですしね。商人や町人、農民など、いろんな役割で生きていた人たちがいたことも、歴史を学ぶと見えてくるんです。
視野が広がるというか、世界の見え方がだいぶ変わりますね。
ゴルゴ
本当にそうなんです。考え方って、いくらあってもいいんです。勉強して、そこから「じゃあ自分は未来にどう活かしていくのか」と、考えをつなげていくんです。リーマン·ショックで仕事がなくなったときも、僕はずっと本を読んでいました。1日20時間くらい。異常だよね?
それはすごいですね(笑)。でもそれだけ学ぶ面白さを感じていたということでしょうか。
ゴルゴ
知らないことが頭に入ってくる感覚が、楽しくてしょうがなかったんですよね。いろんな知識を頭に入れていくうちに、「心とは何か」「魂とは何か」「生きるとは何か」っていうテーマに行き着くんです。そのころになると、もうニュースの見方も変わってくるのよ。世のなかの出来事が、全部つながって見えてくるんです。それから、徐々に自分のことも理解してくる。どうして怒りや嫉妬や焦りを感じるのか、その根っこを見ようとするようになりました。
そして学んでいくうちに、自分は「人に伝えることが好きなんだ」ということに改めて気づきました。学んだことを誰かに話すことで、初めて知識がかたちになるんです。
そういった思いから、少年院で講演をすることになったのですか?
ゴルゴ
そうですね。誰かに伝えたいという気持ちと、言葉の持つ力を実感し始めてきたから。あと僕の人文字ギャグも、きっかけのひとつです。ある日ふと、言葉は“命”につながっているんじゃないのかなって思ったんです。“命”という字は、人、一叩きと書きます。字の意味を紐解くと、「一叩き」は心臓の鼓動ひとつひとつを指しているとも解釈できて、“命”って、生きるエネルギーそのものを表している文字でもあるんだなと思いました。
そこから、“生きる”ってなんだろうと、もう一度考え始めたんです。ただ息をしてるだけじゃない。 「誰かのために動く」「誰かのために笑う」「何かを残す」。そういうことが“生きる”ことなんだって気づいたんです。そんな思いを、“命の授業”というかたちにして話すことにしたんです。
実際に少年院の少年たちと向き合ってどうでしたか?
ゴルゴ
最初は僕も緊張しましたが、話しているうちに相手の目がどんどん変わっていくのがわかるんです。だから、“命の授業”は僕が誰かに教えてるんじゃなくて、僕も相手に教わってる。毎回、話しながら自分も「生きるって何だ?」っていうことをもう一度考えさせられています。
改めて、これまでの人生を振り返って何を感じますか?
ゴルゴ
昔は、正直言って“勝ちたい”とか“目立ちたい”とか、そういう気持ちが強かったんです。でもいまは、誰かを笑顔にするために動くほうがずっと気持ちいい。それが本当の“勝ち”なんだと思います。
だから僕は、命の授業を通して「人は変われる」「言葉で未来は変わる」ってことを伝えたい。自分自身もまだ学びの途中ですが、途中でいいと思っています。人生は完成しなくていい。いつまでも「もっと知りたい」「もっと感じたい」「もっと伝えたい」って思いながら、生きていくことが大事なんじゃないでしょうか。
あとがき
正直、学生のころは勉強することに意味をあまり感じていなかった(とくに歴史)。強いて理由をつけるなら、自分の行ける大学、就職先の幅が広がるから、というくらい。
でも、過去を知らないと、良くも悪くも“いま”がすべてになってしまうということを、ライターという仕事をするなかで少しずつ実感し始めた。AIが発達していろんなことを任せられるようになってきた現代だからこそ、どんな文脈の上にいま私たちの社会が立っているのか。その歴史を学ぶ意味を、改めて考えてみてもいいのかもしれない。どれだけテクノロジーが発達しても、結局どんな未来を進んでいくのかを決めるのは、私たち人間だから。
レッド吉田さんのインタビュー「“終活”の正解って? TIM・レッド吉田が模索する人生の生き方『もっと自分のために生きてもいい』」はこちらから
ゴルゴ松本さんインフォメーション
ゴルゴ松本「命の授業」講演のご依頼は下記ワタナベエンターテインメントHPまで!
北海道から沖縄まで全国どこでも、海外でも講演にお伺いします!
https://www.watanabepro.co.jp/contact/event/
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