かっこよい人

世界各地に日本の美を発信し続ける
友禅作家・千地泰弘さん

京都の風情ある町家に友禅作家、千地泰弘さんのオフィスがある。インタビューの最中に、次々と登場する縁があり、関わりのあった人たちの名前は、日本だけにとどまらず、世界中でその名を轟かせた人たちであった。デザイナーの三宅一生、『ローマの休日』『麗しのサブリナ』をはじめ、アカデミー賞を8回も受賞した伝説の衣装デザイナー、イーディス・ヘッド、さらには、総資産4000億ともいわれるスペインの大富豪アルバ公爵家。京都の友禅と出会い、世界へ着物美のすばらしさを広め続けている千地さんの人生は、奇跡のような出会いと運命に満ちていた。

千地泰弘(ちぢ・やすひろ)
1947年、鎌倉市生まれ。友禅作家。1969年・22歳の時に、仏教画家の父親とともにロサンゼルス西本願寺の大壁画を3年がかりで制作。その後、ニューヨークを始め、世界各国を遊学。帰国後、京都にて友禅染のアルバイトをきっかけに友禅作家活動を開始。三宅一生との出会いにより、1979年・モーリス・ベジャール率いるベルギー国立バレエ団の衣装に染めの分野で携わる。1981年・ハリウッドで「YUZEN CHIJIの世界」を発表。グレイス・ケリー、エリザベス・テーラーのドレスを制作。ブロードウェイ・ミュージカル『将軍』の衣装を担当。1992年・スペインのアルバ侯爵夫人の顧問デザイナーに就任。1996年・国立劇場30周年記念歌舞伎「四天王楓江戸粧(してんのうもみじのえどくま)」の三代目市川猿之助(現・市川猿翁)の宙乗り衣装制作。2011年・イタリアで開催された「マダマ・バタフライ」公演で140点の衣装を制作。国内では、紅白歌合戦の美川憲一、小林幸子等の衣装を始め、多くの芸能人の衣装を手掛けている。
目次

始まりは親子で描いたロサンゼルス西本願寺の大壁画

著名な仏教画家を父に持ち、22歳で親子でロサンゼルス西本願寺の壁画を制作したというプロフィールを見て、さぞ、恵まれた家庭環境だったのではと勝手に思ったのだが、どっこい、そうではなかった。世界で活躍している友禅作家・千地さんのスタートとなった壁画製作のきっかけを伺った。

千地さん
父は、最初から日本画家の大家だったわけではないんです。子どもの頃は、貧乏でお金がなかった。年を取らないと絵が売れない時代でした。ある日父は「家を売ってインドに行くから。お前、家を頼むぞ」て言って、ほんとにインドに行ってしまったんです。父が52歳、私が12歳のときです。母が駆けずり回ってなんとか家を売らずに済んだんですが、3年間、帰ってこなかった。その間、インドで仏画を描いていたんです。タダで。

3年間もかけた仏画がタダですか?

千地さん
インドの寺院に「お釈迦様の一代記をタダで描いてくれる人募集」の貼り紙を見つけて、引き受けまして、3年かけて描き上げたんです。ただ、父はそれで「日本人で初めてインドで仏壁画を描いた人」になったんです。

父・琇也さんがインドで描き上げたのが、ボンペイ(ムンバイ)日本寺院壁画『釈尊伝』である。10年後、その仏壁画がきっかけとなり、ロサンゼルスの西本願寺から壁画依頼がきた。

千地さん
父の助手としてロサンゼルスに行ったのは、22歳の時です。仏画を描くというより、アメリカに行けるのが嬉しくてね。ところが、西本願寺は、リトル東京だったんで、ちっともロスじゃなくて日本人ばかりで広島弁が飛び交っていました。

ロサンゼルス西本願寺の大壁画の一部分

とはいえ、寺院に住み込んで、沐浴や写経をしたりしながら壁画を3年がかりで完成させた。これが千地さんの作家活動の原点となる。完成後は、ニューヨークでアルバイトをしつつ、世界一周の放浪の旅に出た後、帰国。

三宅一生と仕事をすると広げた大風呂敷が現実に

友禅と出会われたのは京都ですか?

千地さん
26才のときに、おやじが日本画家だったんで京都に行ったんですよ。京都で新聞求人欄をの見て、友禅染のアルバイトをしたんです。その頃は、着物関係のアルバイトがたくさん掲載されていました。最初は糸目の花の中をぼかす仕事でした。少しして、絵がかけるもんで親方に「着物を作らせてもらえないですか?」と聞いたら「あほか」と言われました。それで、自分で広幅の布に勝手に染めて、オーダーメイドの洋装店に置かせてくださいと頼んだんです。

広幅は110cm。着物に使われる反物の幅は約36cm。広幅に友禅染をする職人は誰もいなかった。着物であれば勝手に染めたものを売ることはなかなかできないが、洋服生地として制作したので誰にも文句は言われない。それが、飛ぶように売れた。千地さんは、美術学校の生徒を集めて工房を開き、友禅染の技術で洋服用の生地を制作した。

千地さん
染める工程で爪の中は藍で真っ青になるし、その頃の洗剤ではなかなか取れなかったんで、女の子がすぐに辞めてしまうんです。だから、「三宅一生※1と仕事するから」と大風呂敷を広げたんです。

三宅一生さんとは、繋がりがあったんですか?

千地さん
ありませんよ。女の子を引き留めたい一心でした。1年経っても、2年経っても何も起こらないから「先生の嘘つき」と言われました。3年目には10人いた従業員が3人に減ってました。ところが、3年目の夜の8時に「三宅デザイン事務所です」と電話がかかってきたんです。「モーリス・ベジャール ※2 が、衣装を友禅染で作りたいと言っている」ので電話をしたというのです。衣装が完成するまでパリに何度か通いました。

三宅一生デザイン事務所からかかってきた1本の電話から大きく運命が動き出す。当時、三宅一生は、パリですでに名を轟かせていた。従業員を引き留めるために「三宅一生と仕事をする」と広げた大風呂敷が、実を結んだのだ。1979年・ベルギー国立バレエ団の衣裳を三宅一生・毛利臣男 ※3 とジョイントし、制作したことで、友禅作家としての知名度が広がった。生地に木綿や麻を使用することは日本古来の友禅の世界にはない。加えて千地さんが扱っていたの生地は広幅である。京都の着物職人は誰もやってはいなかった。友禅染の技術や素晴らしさが、世界に向けて発信された。また、毛利臣男との出会いは、後の国立劇場30周年記念歌舞伎「四天王楓江戸粧(してんのうもみじのえどくま)」の三代目市川猿之助(現・市川猿翁)の宙乗り衣装制作に繋がっていった。

千地さん
スーパー歌舞伎「四天王楓江戸粧(してんのうもみじのえどくま)」のときは、初めてのことばかりですべてのことが試験的で新しいものが生まれるという気持ちでした。藤間紫(紫派藤間流家元・夫は三代目市川猿之助)さんの「猿之助はこう見せたいんです」とダメ出しやら指示がありました。それが的を得ているんです。作品を作り上げるために周りでいろんな人ががっちり手を組んだときが一番楽しい。そういう喜びを友禅を通して混じりあいながら構築していく楽しさは、一度味わったら辞められない。病気になっちゃうんです。

国立劇場30周年記念歌舞伎「四天王楓江戸粧」三代目市川猿之助(現・市川猿翁)の宙乗り衣装

※1 三宅一生=ファッションブランド「イッセイミヤケ」の創設者で世界的ファッションデザイナー
※2 モーリス・ベジャール=『春の祭典』『ボレロ』などの作品を通して、舞踊の芸術表現としての地位を回復し、世界に大きな影響を与えた振付家
※3 毛利臣男=国内外におけるオペラやバレエ、スーパー歌舞伎、能、現代劇などの美術や衣装デザインを手掛けると同時に、様々な空間展に美術監督として活躍し、1972年~ISSEY MIYAKEのアートディレクターとしてパリコレクションの企画、演出等を担当

グレイス・ケリー、エリザベス・テイラーも購入した生地

ひとつの伝手が芋づる式に広がり始めた。千地さんの友禅染のテキスタイルを使い、アメリカのデザイナー10人がドレスを制作するというファッションショー「YUZEN CHIJIの世界」では、名だたるデザイナーが参加した。その中にアカデ ミー賞を8回も受賞した伝説の衣装デザイナー、イーディス・ヘッドがいた。あの『ローマの休日』『麗しのサブリナ』の衣装デザイナーである。ところが、奇しくもショーの3日前にイーディス・ヘッドが亡くなってしまう。ショーで発表された作品は、イーディス・ヘッド最後の作品となったことで注目を浴びた。すると「あの日本人は誰だ」と注目の的となったのだ。

千地さん
イーディス・ヘッドの最後のショーになったんで、かなり取り上げられたんです。千地って誰だってね。グレイス・ケリー、エリザベス・テイラーも僕の生地を買ってくれました。日本の歌番組に出演する歌手の衣装を手掛けるきっかけになったんです。世界の人に認められているということで、再認識されたと思います。

チャンスって動物を知っている?

チャンスって、自分に来ていても知らずに通り過ぎている人も多いのではないかと思うんですが、どうやって一つ一つのチャンスをものにしてこられたのでしょうか。

千地さん
夢ってね、自分で掴めないものを見るのが夢。夢を掴んだら、次に掴めないものを夢にする。出会いも昨日まで知らなかった人と出会うでしょ。あなたと出会ったのもそう。三宅一生さんとの出会いも夢に見ていたら、ある日、側に三宅一生さんがいて一緒に仕事ができた。昔、父が僕に「チャンスって動物を知っているか? それは、体がぬるぬるして毛が3本しかない。10mくらいまで近くに来ないと見えない。掴み損なうと掴めなくなる。チャンスを掴むために準備を重ねることだ」と教えてくれました。

スペインの大富豪・アルバ公爵家の秘密の部屋に

準備を重ね、着々と作品に向き合ってきたからこそ、世界が次の世界へとどんどん広がっていったのだろう。ぼーとしていたらチャンスっていう動物は見えないのかもしれない。今年、33年前に千地さんがある人に贈ったものが、一躍脚光を浴びた。それも1本の電話で知らされた。

千地さん
いきなり、テレビ局から電話がかかってきたんです。500年の歴史を持つ貴族・アルバ公爵家が代々住む邸宅の秘密の部屋に、南天の打掛が飾られているをご存じですかってね。それは僕が33年前に贈ったものなんです。

電話をかけてきたのは「有吉の世界同時中継~今そっちはどうなってますか?~」「世界の大豪邸!秘密の部屋を開けろ!」(テレビ東京)という番組のスタッフだった。番組では、アルバ公爵家の先代の故・18代アルバ公爵夫人がこれまで非公開にしてきた「隠し部屋」が日本で初公開された。部屋には額に飾られた1枚の着物があった。その着物の贈り主が千地さんだった。

スペイン・アルバ公爵家に飾られている「打掛 南天珊瑚」

千地さん
南天の打掛です。侯爵夫人が額に飾ってくれていたのも知らなかったんです。死んでもこの着物を見ていられるようにと、着物の正面に自分の肖像画を飾っていたんです。それだけ美術品扱いしてくれていることに感動しました。

貴重な紅サンゴを約600個もあしらった打掛が飾られていた。テレビ局からの電話で初めてその事実を知ったのだ。映像を観ながらコメントを求められたとき、千地さんは涙ぐんでいた。海外で多くの方に評価を受けてこられましたが、これからも海外へ向けての発信をしていく予定はあるのでしょうか?

遊び心で制作した 中村勘三郎 勘九郎 親子の「連獅子」

千地さん
基本は着物の良さを日本全国の方々に見てもらうことです。海外での活動は、日本に火をつける役割をしてくれます。来年はニューヨークでファッションショーを開く計画をしています。

徳川幕府が存続している間に3回も欧米に渡航した福沢諭吉がショーのキーワードになるという。今後の目標をお聞かせください。

「夜桜」

千地さん
着物をもっとワールドワイルドにもっていかないとダメ。ニューヨークで着物をレンタルしてもらうとか、足跡を作っていきます。昭和の怒涛の時代を見てきてるものとして、ちゃんと日本の文化を伝えていきたい。今の若い子にとって昭和は、僕らの明治のようなものでしょ。若い子にただしゃべるだけではわかってもらえない。でもニューヨークで着物がカッコいいと話題になり、着物を着て歩くのが最先端だとなれば、若い子にも理解してもらえると思うんです。孫にね、カッコいいと言わせたいんで、カッコいいいじじいでいようと思っています。

千地さんの着物は着るためだけでなく見せるための着物でもある。着物は平面で描き、立体で考えると千地さんは言う。平面で見たときにも面白く楽しめ、まとって立体に着物がなったときも楽しめる。伝統文化である着物をもっと世界中に広めていかなければならないという千地さんの夢はまだ半ばである。

取材・文=湯川 真理子

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