かっこよい人

エンターテイナー井上順に聞く【前編】
僕は「スター」よりも「太陽」になりたい

NHKの朝ドラ『おかえりモネ』で印象的な役を演じたほか、2020年から開始したTwitterでは「グッモー!」ではじまるツイートを毎日更新している井上順さん。これを受けて今年の10月には初のフォトエッセイ『グッモー!』(PARCO出版)を出版した。
74歳になっても新しいことに挑戦し続けている順さんに、年をとっても元気に生きるコツを聞いてみよう。
記事は前編と後編、2回に分けて配信していきます。

井上順(いのうえ・じゅん)
1963年、16歳でザ・スパイダースに加入。「夕陽が泣いている」「バン・バン・バン」「あの時君は若かった」など多くのヒット曲でGSブームを牽引。解散後はソロ歌手として活動。テレビドラマ『ありがとう』出演のほか、『夜のヒットスタジオ』では司会を担当した。現在もドラマ、映画、舞台、テレビ番組、ラジオ、CM、ディナーショーなど多岐にわたって活躍中。
目次
インタビューは、Bunkamura内のレストラン「ドゥ マゴ パリ」の協力で行った。1階フロアでは、SNSでも話題の「くまたちと一緒に楽しめるアフタヌーンティープラン」を行っている。

めまぐるしい変化そのものが
渋谷という街の特徴

渋谷生まれの渋谷育ちの順さん。この74年間の街の変化を順さんは、どう見ていますか?

井上
「昔は原っぱや田んぼがあった」なんて言うと、今の人は驚いちゃうかな。にぎやかだったのは駅前にある東横百貨店(現:東急百貨店東横店東館)のあたりくらいで、駅の南側に流れる渋谷川には底が見えるくらい澄んだ水が流れてましたよ。
渋谷川はその後、高度成長期の公害でみるみるうちに汚くなって、ヘドロだらけの川になりましたけど、ありがたいことに最近、浄化が進んですっかりきれいになりました。駅の南口から並木橋までの遊歩道に行くと、その様子を確かめることができるので是非歩いてみてください。

もうひとつ、僕にとってありがたかったのは、渋谷が若者文化の発信地として栄えていったということ。世田谷や目黒、新宿、青山あたりの学校に通う学生さんが、みんな渋谷を起点にしたからかな。
20世紀の終わりには、真っ黒に日焼けした「ガングロ」なんて呼ばれた女子高生が街中に現れてビックリしたけど、僕は「おもしろいなぁ」と微笑ましい思いで眺めてましたよ。
「変化する街」というと「特徴のない街」をイメージする人が多いかもしれないけど、渋谷の場合、めまぐるしい変化そのものがこの街の大きな特徴なんじゃないかなぁと思ってます。

フォトエッセイ『グッモー!』(‎PARCO出版)によると、子どものころは外で泥んこになって遊んでいた順さんも、中学生になると六本木で遊ぶようになったそうですね。

井上
きっかけは、中学1年生のときに「六本木野獣会」という夢を持った若者のグループに参加したこと。

ある日、母に連れられて知り合いの家に遊びに行ったんだけど、「順ちゃんはあちらの部屋でみんなと遊んでらっしゃい」と言われて部屋に入ったらビックリ仰天。僕より少し年上の人たちがピアノやギター、ベースを弾き、ドラムを叩いて洋楽を演奏していたんです。家にピアノが1台あるだけでも珍しかった時代、5~6人のバンドを生で見たのはそれが初めてでした。
しかも、彼らが演奏しているのは、僕が大好きな「洋楽」の曲。もう最高! と思って、その日から彼らと行動をともにすることにしました。

「六本木野獣会」は僕にとって“学校”だった

「野獣会」というと、なんだか怖そうなイメージがありますね。

井上
怖いのは、名前だけ。みんな優しい人たちで、最年少の僕をかわいがってくれました。

中でもよく面倒を見てくれたのは、後に俳優になった峰岸徹さん。楽器を弾かせてもらったり、歌をうたったりしたあと、食事や遊びに連れていってくれました。

当時の六本木は、まだ地下鉄が通る前で、路面電車の都電2号線沿いに並ぶ商店街は、どこにでもある普通の商店街に見えたけど、その中にポツン、ポツンとかっこいい大人が通う店が点在していました。ジュークボックスのある「ザ・ハンバーガー・イン」とか、四角いピザが食べられる「シシリア」、各界の著名人のたまり場として有名なイタリアンレストラン「キャンティ」とか。

加賀まりこさんに出会ったのは、「レオス」という1階がデリカテッセンで2階がレストランになった店。驚きましたねぇ。あまりの美しさに食事中でも目が離せないの。ひとくち食べたらチラッ、またひとくち食べたらチラッって、人の目を強烈に惹きつける魅力を放ってました。

10代半ばで早くも大人の世界を覗いてしまったわけですね?

井上
そうなんです。とはいえ、いくら背伸びしても、中学生の僕が大人の世界に溶け込むには無理があります。

そこである日、兄貴分の峰岸さんにアドバイスを仰いだんです。
すると、「スーツだよ。ジャケットは大人の男の象徴だ」という答えが返ってきました。
僕にとってラッキーだったのは、野獣会のメンバーに洋服のデザイナーやテーラーなど、ファッション業界を目指している人が何人かいたこと。
中でも洋服屋の二代目の大内くんは、「自分の勉強になるから」と採寸から仕立てまで、オーダーメイドのスーツを僕のために毎月1着ずつ作ってくれました。
「ありがとう、お金は?」というと、「出世払いでいいよ」って言ってくれて。

中学生のうちから仕立てのスーツを着ているなんて、周囲にはどんなボンボンだ? なんて思われていたかもしれないけど、人との出会いのおかげで僕はスーツの着こなし方をイチから学ぶことができたんです。

順さん流「スーツを着こなす方法」とは?

井上
まずは、自分の体に合ったサイズのスーツを着ること。それから、ファッションにくわしいプロのアドバイスを聞くこと。そのふたつかな。

今でも僕は、新しい番組が決まったときやライブの前など、ここぞというときは必ず馴染みのテーラーに行って、スーツやジャケットを仕立ててもらってます。
「そういう番組ならこんなのがいいんじゃない?」とか、「ディナーショーならこんなのは?」とアドバイスしてくれて、大いに助けられています。大内くんと同じく、野獣会のメンバーだった「マルキース」の佐々木康雄さんとは、半世紀のお付き合いになります。

僕にとって野獣会は、“学校” のようなところでした。毎晩のように通っていたから、義務教育の学校のほうは休みがちで高校も卒業していないから、僕の肩書きはいまだに「中卒」なんだけど、男とはいかにあるべきか、大人になるにはどうふるまうべきか、そんな大事なことを10代の早い時期から教わったと思ってます。

「ただ立ってるだけでいい」と
誘われてスパイダースに加入

順さんは16歳のとき、「ザ・スパイダース」に加入しますが、どんなきっかけがあったのですか?

井上
野獣会のバンドで歌っていた僕を見て、スパイダースのドラム兼リーダーの田邊招知さんが声をかけてくれたんです。田邊さんは、後にタモリさんや由紀さおりさん、永作博美さんなどが所属する芸能プロダクションの田辺エージェンシーの創業者になる人です。
スパイダースの結成から3年目のことで、ボーカルのかまやつひろしさん、堺正章さんたちはすでにこのバンドのメンバーでした。

スパイダースは当時、本格的なジャズを演奏するプロフェッショナル集団だったから、放課後の部活気分で歌っていた僕がその一員になるなんて考えられませんでした。でも、田邊さんの「ただ立ってるだけでいいよ」というひとことがあって、ホッとしてお誘いを受けてみることにしたんです。

順さんが加入したスパイダースはその後、日本のグループ・サウンズ(GS)の礎を築いたバンドとして伝説になりますね。

井上
GSが出てくる前には、「日劇ウエスタンカーニバル」を舞台とするロカビリー・ブームが起こっていました。

僕が田邊さんをすごい人だなぁと思うのは、このブームを冷静に見ていて「このままじゃバンドは続かない。全国区に広げていくには、バンドの形を変えていかなきゃ」という問題意識を持っていたこと。

それまで多くのバンドが洋楽のカヴァーを演奏するのが当たり前だった当時、「もう他人の曲をやっていても仕方ない。オリジナルをやろう」と言ったのは田邊さんで、ビートルズやローリング・ストーンズを筆頭とするブリティッシュ・ビート・ロックのテイストを取り入れた曲を作り始めたのがかまやつさん。

メンバーで唯一の免許保持者だったかまやつさんの運転で横浜にある米軍キャンプに行って、アメリカ人たちのダンス・ステップを曲に取り入れたり、世界を股にかけるF1レーサーの生沢徹さん、福澤幸雄さんから最先端の海外事情を取り入れたりして、スパイダースは洗練した独自のスタイルを確立していきました。

二枚目で売るつもりが三枚目に暴走!?

驚いたことに、スパイダースのライブは最初のころ、お客さんが3人しかいなかった日があったそうですね?

井上
ありましたよ。メンバーが7人だから、こんなに不経済なステージはないよね。でも、半年くらい立つと認知度があがって、1ステージ入れ替え制になるほどお客さんが増えていきました。
あるときは、客席がすべて制服姿の女子高生なんてこともあってね。聞けば、修学旅行のコースを決めるとき、僕らが主な活動の場にしていたジャズ喫茶が人気ナンバーワンになっていたんだそうです。

スパイダースのステージは、ツインボーカルの堺正章さんと順さんの爆笑MCが有名ですね。

井上
僕は「ただ立ってるだけ」のメンバーでしたから、最初は堺さんがひとりでMCをやってたんです。

堺さんは、有名な喜劇役者の堺俊二さんの息子さんで、天性のトークの才能を持った人。
ところが、田邊さんは厳しい人で、堺さんが前にしゃべったのと同じネタを話そうとすると、ドラムの乗った床をドンドンと足踏みして注意するんです。だから、堺さんは一度ステージで話したことをマメにメモしたりしていました。

そうこうするうち、レコーディングや映画の撮影などでスパイダースの仕事が忙しくなると、さすがの堺さんもネタ探しに苦心したんでしょう。MCのとき、隣に立ってる僕にネタを振ってくるようになったんです。

最初のうちは、ただ堺さんの話に相づちを打つくらいだったけど、そのうち駄洒落で返したりして笑いが起こるようになってね。

先日、久しぶりに田邊さんとお会いしたんですが、そのときのことを思い出して「順は二枚目で売るつもりだったのに三枚目に暴走した」って言ってました。「順はいつまでたってもプロっ気がないなぁ」というのも昔からの田邊さんの口癖。とにかく、僕のトークのスキルは、スパイダースで場数を踏むことで鍛えられたことは間違いないですね。

僕がお手本にしてきた「エンターテイナー」たち

スパイダース解散後、順さんはソロ歌手として「お世話になりました」などのヒット曲を生み出したほか、俳優としてテレビドラマ『ありがとう』に出演したり、『夜のヒットスタジオ』では司会として芳村真理さんと丁々発止のやりとりをしたり、多方面で活躍されます。順さんが理想とする「エンターテイナー像」とは、何でしょう?

井上
エンターテイナーって、どんな人をそう呼ぶかって考えてみると、僕は「人を笑顔にさせるプロ」なんじゃないかと思うんです。

僕にとってのお手本は、テレビの中にいる人たちでした。戦争が終わって2年後に生まれた僕の場合、物心ついたころには敵国だった米国のエンターテイナーの番組が盛んに放送されていたんです。

フランク・シナトラ、ディーン・マーティン、サミー・デイヴィスJr.、ペリー・コモといったエンターテイナーのテレビショーを夢中で見たものです。字幕を通じて理解する彼らのトークは、ジョークがいっぱい。お洒落でスマートで、下オチもない上品なものでした。
堺さんも僕と同じように彼らから影響を受けたひとりで、一緒にコントを演じるときには「きれいな笑いにしようね」って言い合ってたものでした。

ハリウッド俳優のケイリー・グラントにも憧れたなぁ。スーツの着こなしも大いに参考にして、「どこのテーラーで作ったのかなぁ」なんて想像を巡らせたりして。

最初は真似から入ったとしても、自分なりの個性のようなものはジワッと湧き出てくるものです。ほら、モノマネ芸人の人たちの芸を見てみても、同じ人の真似をしているのに、人によって似ているポイントやおもしろさって、全然違うでしょ? その違いが個性なんじゃないかと思うんです。

今でも僕は「この人の歌い方が素晴らしいなぁ」とか、「この人のしゃべりはおもしろいな」と感じたときは、真似してみたりします。

お手本になる人がいるって、とても大事なことなんですね。

井上
もちろんです。もうひとつ、僕にとって最大のお手本は、両親でした。父も母も「人を笑顔にさせる」という点では、とても優れた人だったから。

僕の生家は、今の渋谷区富ヶ谷のハクジュホールが建ってるところにあった「井上馬場」。馬場というのは、馬の育成や乗馬の練習などをするところで、祖父が経営していました。ジジがやっていてもババね(笑)。

祖父の家の次男として生まれた父は、「井上馬場」専属の獣医をしていたんだけど、仕事が終わると毎晩、銀座のクラブを飲み歩く遊び人だったそうです。後にスパイダースが銀座のジャズ喫茶で演奏するようになると、その時代の父を知る人の話を聞く機会があって、「人当たりがよくて、憎めないタイプの人気者だった」と多くの人が言ってました。

母のほうも、父に負けずに明るい人だった。両親は僕が4歳か5歳のころ、父の女遊びが原因で離婚してしまうんだけど、母はその後、自ら会社を立ち上げてバリバリ仕事をするバイタリティのある人でした。性格がさっぱりして、いつも明るく笑っていた印象があるなぁ。

スパイダースが解散した後、僕はソロ歌手としての活動を始めるんだけど、そのとき「どんなスターになりたい?」と聞かれたことがありました。その質問に僕は「スターじゃないな。僕は太陽になりたい」と答えました。

夜空に輝く星は、確かに美しいかもしれないけど、人を心から暖かく照らす太陽のほうに憧れを感じる。今でもその気持ちに変わりはありません。スターと呼ばれるよりも、太陽と呼ばれるような人に僕はなりたいなぁ。

楽しいお話、ありがとうござました。後編のインタビューでは、順さんが50代半ばでなった感音性難聴の話、渋谷区の名誉区民になってTwitterを開始された話などについて、お聞きしていきたいと思います。


後編記事はこちら→ 井上順インタビュー【後編】 日常に感謝と喜びを見つける生活術

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グッモー! からはじまる日々のつぶやきがTwitterで老若男女に大ヒット!
エンタメ界の星・井上順が満を持して執筆する人生初のフォトエッセイ。
家族のこと、仲間のこと、仕事のこと、人生のこと、
井上順の「大切な忘れもの」が年代記で蘇る。
人生という旅をご機嫌に楽しんで生きる井上流ジャーニー♪
軽妙な語り口で渋谷愛が炸裂する渋谷今昔リポートも収録。

取材・文=内藤孝宏(ボブ内藤)
撮影=松谷佑増(TFK)

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